論文作法 お金

 ああ幸せ。そう思いながら劇場の椅子を立つ瞬間がたまらなく好きだった。じっと座っていて凝った体さえ愛おしくなるような、心地いい疲労感を掬い上げるように立つ終演後。それを最後に味わったのは4ヵ月以上前の2月26日だった。その日、マスクに消毒液をもった、いつもよりかさばったバッグを抱えて急いだ劇場への道のりの中で、私は一歩踏みしめるごとに覚悟していた。きっと今日が千秋楽になってしまう、と。
 予想は当たった。開演オンタイムで、いつものように照明が暗転しなかったことですぐきづいた。今この場で、公演中止のアナウンスがされるのだと。舞台上に並ぶキャストの言葉は虚しく耳を通り過ぎて行って、ざわつく客席にいるはずなのに、どくん、どくんと自分の拍動だけが未来への早鐘を鳴らすが如く耳元で増幅していった。客席のざわめきの正体は「公演中止のショック」だろうが、私の心の中は、公演が半分以下しか打てずに中止になったことによるその一座への損失がいかばかりかを心配する不安の嵐が猛っていた。
 この状況で少しでもお金を手にできるのは、会社から月給が出ている制作サイドの事務方とライセンス料を支払われた脚本家、そして、打った公演数分でギャラが算出される役者と演出家であり、大赤字確定の中止となれば、現場で公演をテクニカルにサポートしていく技術職の末端には給与が支払えない可能性が高い、そこで悟った。

私が愛しているこの世界はもう二度と戻ってこない。

その日、まさに私はエンタメが瓦解する淵源に居合わせていたのである。一瞬でそろばんをはじいて将来を覚悟しているうちにキャストはいつの間にかはけていた。さよなら、世界。「最後」の公演が幕を開けたとき、私は惜別の念に押しつぶされそうだった。

そこからすべてが壊れるまでは一瞬だった。相次ぐ「公演中止」の4文字にとうとう心がもたなくなってきたころ、演劇界の偉い誰かが悲鳴を「演劇の死」という言葉に乗せて世間に伝えた。
死なねえよ、演劇舐めんな。19歳は噛みつきながらその雪崩を見ていたが、そのうち、補償を!と叫ぶのに精いっぱいにいなって舵をきれず、混乱の荒波に沈んだ劇団をみたり、関係者から、スタッフにお金が払えなかったケースや、長年演劇を支えてきた美術や照明のスタッフが実際にやめていった話をいくつも聞いたりしているうちに、死なないで。と祈るような気持になっていた。しかしそれもギャラのセオリー通り。この現状では末端どころかキャスト含めたほとんどのスタッフに報酬を出せない。実際問題夢の世界の対価はお金で、霞を食べて生きていくことはできないのだ。人がやめる、演者が、クリエイターが、いなくなっていく。演劇の崩壊は止まらない。これを止められるのはお金だけ?いや、お金で赤字を補填できたところでコロナ以前の演劇界を取り戻すことはできないだろう。皮肉なものだ。お金がなくて立ち往生する演劇界はお金があっても前のようには走り出せないなんて。手元のチケットを払い戻して数万円が戻ってきたとき、改めて思い知らされた。いくらお金があっても、「生」の空間はもう手にできない。耐えがたいほどの虚しさだった。劇場で味わう奇跡体験、LIVE感。あの空間は、私にとってプライスレスだったのだ。
有史以前からある舞台演劇の営みがウイルスごときに殺されてたまるかと、足の竦んだ迷子のような演劇界の行く先を19歳がじっと見る。ああ、私の夢に対しての両親の風当たりが強くなるだろうな、なんて思いながらスマホをいじる。
吉報に心が躍った。【公演再開のおしらせ】ああ幸せ。プライスレスな夢の世界はゆっくりと動きだしたようだ。

その100円で私が何買うかな、って想像するだけで入眠効率良くなると思うのでオススメです。