論文作法 10年後の自分
まるで二分の一成人式によく書く、そんなタイトルじゃないか。と、10歳当時20歳の自分に宛てた手紙を開けるときがもう目前まで迫っていることに気が付いた。具体的なビジョンを書くことはできないが未来へ期待をかけ、努力することはできる。そのため10年後の自分が読み返すことを前提に、言霊を宿す気持ちで未来への展望を書き連ねようと思う。
私は今、現在最前線で脚本を書いている人に付いて主に舞台の脚本の勉強をしている。そこに至る美しい動機はない。日曜の夜を超える難しさに疲弊しきったころに舞台に出会ってからずっと、何かを創る人間でいたいと漠然と思っていた。そしてその思いは偶然と勇気が重なり合って脚本というフィールドに落ち着いた。新卒扱いの最後の歳までに実績を残せなければ諦めると、そう両親には取り付けた期限付きのチャレンジ期間である今、私は少しこの道を生き急いでいるかもしれない。
さて、10年後の私。生きて、これを鼻で笑いながら読んでいることを期待する。これは、脚本のプロットや資料が大量にあるラップトップから、このワードファイルを思い出したように引っ張り出して締め切りの間際に頬を緩めるための文章だ。私にとって生きるとは、命がただ続くことではない。世の中の、特に劇場に来るような酔狂な人の、その中でも下を向いている人たちと、一緒に下を向いて、時折一緒に前の景色を見るための物語を、迸るままに書き連ねることだ。10年後の私は「生きて」いてくれているだろうか。ともに仕事をしたいと願っていたエンターテイナーたちと比肩しているだろうか。
とはいえこの問いへの答えがイエスであることを10年後時点の私だけに期待することはしない。イエスと言えるだけの布石をこの10年で確実に打つつもりでいるからだ。
そして19歳の私から、私へ、お願いがある。常に本気でいてほしい。初めて演劇を見た日、初めて脚本の勉強会に行った日、「本気でこんなことやっている大人がいる」と世界が愛おしくなった。本気で表現する人間がいるこの世界は、案外悪くないと思えたからである。もし順調に夢が体現できているのなら、後ろに続く人に「こんな大人がいるのか、世界も捨てたもんじゃないな」と肩の力を抜いて、夢を描ける安心感を与えてほしい。世のメインストリームに乗るのが全てではないと、「まとも」な大人が嫌な顔しそうなことを言い続ける、ネバーランドににいるおばさんになってほしい。そして、読みながら「まだおばさんじゃない」と軽く腹を立てるくらいには子供でいてほしいのだ。
寝ぼけたような建前は好まない。「こんなことがあって、こんなことに興味を持ったので、こんな未来を実現できるようにがんばります」そのような「まとも」に御誂え向きの文は些か薄気味悪い。気に入られるためのロジック展開は入試や就活の時だけで、この文章に周囲の納得も共感も大して必要ない。私が10年後の私のために今書ける言葉や気持ちを大切にしたほうが性に合う。私へ、大人にならないで。絆され、「生きる」ことをやめ、それを見てみぬふりして、周囲に受け入れられ、「大人」と言われている10年後だけは見たくない。常に求めるものを追える強さを持ち、これを読み返している私が、この文章の青さに苦笑いしながらも共感してくれることを切に願う。
その100円で私が何買うかな、って想像するだけで入眠効率良くなると思うのでオススメです。