架空のきみとぼく~佐藤聖を読む~

 佐藤聖が帰ってくる。佐藤聖はテーマ性のある連作をツイッターで呟いていた短歌アカウントで16年を最後にしばらく活動をお休みされていたのだけど、この度復活を予告したということで、これをキッカケに氏の短歌をまとめて読み返してみた。読んでみたい方はTwitterの検索からどうぞ。

 好きだ。良すぎる。って狂喜をしばらく転がしてたんだけど、いくつか気づいたことがある。この記事ではそれについて考える。いま書いてる段階で結論を得てないので散漫になるかもしれない。でも書いておきたい。お付き合いいただければ幸い。

物語性

花壇にはまだ黒翅蝶群れ飛んでいて(太陽を轢き殺せたら)
彗星の死骸の味がする、とだけメールを打って珈琲を飲む

 最初に思ったのは、強い物語性だ。ここでいう物語性とは、それが本や映画のワンシーンのようである、って意味だ。ワンシーンってのが重要で、このシーンの前後には、シーンの必然性を回収するだけの長いストーリーがあるに違いない、と感じさせられるのだ。少なくともぼくは。

 短歌は余白であるってみんなが言う。そうであるなら、31音の向こうに30分くらいのあらすじを想像しうる佐藤聖の短歌はめちゃくちゃに余白が広い。氏の短歌は、ぼくたちのだれもが心の底では知っている物語の、ここぞという一幕を切り抜くのが抜群にうまい。

きみ

きみが指差して欲しがるチョコがみな「Sold Out」しててよかった
信号を渡り損ねた君の背にがぶり! ワニです両手でがぶり!

 もう一つ気づくことがある。それは、短歌の中に<きみ>がいることだ。特に引用した短歌でははっきりときみ/君という単語を使っているが、それ以外の短歌でもそうだ。この<きみ>は、物語的な、フィクショナルな存在を指しているのだけど、同時に、はっきりと特定の個人を指しているように思える。比較のためにぼくの短歌を挙げる。

恐竜も空を見上げて泣いたのか青雲それは君が見た光/さよならあかね

 この君は特定の個人ではない。一般的な「あなた」を指してるように読める。この歌自体はCMソングの引用だけど、元のCMでも君は一般的な「あなた」を指してる。それは定まった個人ではなくて、わたしではない誰か、くらいの意味である。

きみとぼく

千回目。それでもカブは抜けなくてきみの名を呼ぶ。千一回目。

 さて、この歌で「きみの名を呼」んでいるのはだれだろうか。間違いない。<ぼく>だ。この作中主体については解釈が分かれるかもしれないけど、前々項で記述した物語性に乗っ取るなら、<ぼく>もやはり特定の個人を指してる、気がする。単純な話で、カメラがあってこの物語を撮っているなら、画面には<ぼく>と<きみ>が両方写ってるんじゃないか。両者はあくまで対等の存在として客観的に描かれている。

ハーワーユー? 虚勢だらけの日常で、ふと、けだるさに笑ってみせる 

 単語として君、僕を使ってない短歌でも同様で、ここには明確に<きみ>と<ぼく>がいて、佐藤聖はおそろしいほど完璧にそのシーンを捉えている。この「けだるさに笑」うカット、目に浮かぶようじゃないか。

 まとめよう。佐藤聖の短歌は非常に物語的であり、そこには登場人物としての<きみ>と<ぼく>がいる。短歌の鑑賞者としてのぼくらはスクリーンの前に座って、鮮烈な物語が描写されるのを見る観客となるのだ。この、鑑賞者としての読者を想定するとき、そこにあるのは物語への意思である、とぼくは感じる。氏が描くのはあくまでもフィクション、架空の物語のワンシーンだ。だけど、それを見るぼくたちは仮託する。<きみ>や<ぼく>に感情移入することで、物語への同化とでもいうべき意識体験を得るのだ。本や映画に夢中になって我を忘れるような、あの感覚を。

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