あかねの(ための)一首評 16
たいようが食べたいようと言いあえば遠くで夏が終わってしまう
鈴木ちはね(『予言』より)
初めに。ぼくはこの歌の意味がよくわからない。ただ、初見でめちゃくちゃ惹かれたのを覚えてるし、いま見てみても、めっちゃいい歌だなと思っている。だからできるだけ、その感情を掘り下げられたらいいなと思う。
* * *
この歌は三句切れになっている。たいようが食べたいようと言いあえば/遠くで夏が終わってしまう。構造としては、上の句が下の句の原因になっている。どういう因果でそうなるのかはわからない。でも、ぼくはこの歌を見て、わかるなあ、って気持ちになる。
まず、歌全体の主語はたいようだろう。それが「食べたいよう」と言いあっている。つまりたいようは複数いる。ダジャレから歌が出発してることも含めて、ひどく戯画的な感じがする。子どもが画用紙に書きなぐったみたいな、目と鼻と口のついてるたいようが2つ。それが「食べたいよう」と言いあっている。
ぼくたち人間の感覚では太陽はひとつしかないけど、夜空に光る星々のほとんどは恒星、つまり太陽である。宇宙には1000兆個もの恒星があるというのだからこれはもう想像もできない世界だ。ぼくらの太陽にとってお隣さんとでも言うべき恒星はプロクシマ・ケンタウリって赤色矮星で、太陽からだいたい4光年離れたところで薄暗く光っている。ぼくはプロクシマ・ケンタウリが好きだ。なんとなく名前がかわいい感じがするし、太陽の1/8の質量ってのもかわいい。彼なら「食べたいよう」って言い出しても不思議じゃないような感じがする。
ぼくらの太陽とプロクシマ・ケンタウリが会話するには片道4年もの時間がかかる。それは宇宙のスケールからすれば一瞬みたいな時間だけど、人間の感覚からすればあんまりにも長い。彼の「食べたいよう」が届く頃にはもう、プロクシマ・ケンタウリb星人の夏は144回も終わってしまってる。
そんな人間とたいようの時間感覚の違いを、面白おかしく描いた歌、なんだろうか。
どうにもやっぱり、そんなわけねーじゃんって気がするのだけど。
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歌の意味がわからなすぎて友だちに話してみたら、すごいびっくりする解釈を聞いた。この歌の主語は、ふたりの人間だというのだ。
(ふたりの人間が)「たいようが食べたいよう」と言い合えば遠くで夏が終わってしまう。
むべなるかな。まったくぼくは胸のつかえが取れたみたいで、でも「食べたいよう」って言いあうふたつのたいようの感じを忘れちゃうのは勿体ないなあと思うのだ。
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