あかねの(ための)一首評 14'
すごい雨とすごい風だよ 魂は口にくわえてきみに追いつく
平岡直子「Happy birthday」より
なぜ魂を口にくわえたのだろう。落とさないため。四肢を自由にするため。そうだ。主体はいまから疾走する。すごい雨とすごい風のなかで、魂を口に咥えて、主体はいまにもはしり出そうとしている。その瞬間を捉えた歌だ。
面白いのは、「すごい雨とすごい風」にネガティブな印象がないことだ。「だよ」が、きみにこの風雨のすごさを伝えたいのだという感じを抱かせる。雨と風は障害ではあるのだけど、不快なものではない。主体はこの風雨の中を駆けられることを喜んでいる。そんな感じがする。
書かれていないことだけど、主体はおそらく四つ足で走るんだろう。犬や猫のように。そういう獣性が歌全体から感じられる。雨と風に対する率直すぎる「すごい」という形容、それから口に咥えるというお行儀のわるさがそう感じさせるんだろう。
…
ここまで書いてどうしても先に進まなかったのだけど、わかった。
この主体、そもそも人間だろうか。
ぼくの中にある最大の違和感は、人間って魂くわえるかな…? だ。ぼくたちのふつうの身体感覚だと魂は身体の中にある感じがする。脳とか、心臓とか。ぼく的には心臓の位置にあるんだけど、これ、ちょっと走ったくらいでぽろっと取れちゃうようなものかな? 咥える以上、それはやはり落とさないことが一番の目的に思える。ぼくにとって魂とは、ぼくそのものであるというか、簡単に取れちゃうようなものではない気がするんだ。
人間はみんなそうだ。ぼくはそう思う。ある意味では、人間は魂に束縛されている、とさえ思う。人間は魂からは自由になれない。ぼくたちは、ぼくたちであることから逃れられないのだ。それがぼくの認識だ。
でも動物ならできる。
ぼくはこの歌を最初に読んだときに黒猫を連想した。闇にらんらんと光る金色の目をした黒猫。それが魂を咥えている。
猫の、あるいは動物の気まぐれさ、気ままさというのは人間とは一線を画する。それは、魂から自由である、ということだ。動物に魂がないとは思わない。しかしそれは、人間に比べて、なんというか、あってもなくてもいい、といった種類のものなのだ。
魂を「口にくわえてきみに追いつく」のは、人間には許されない自由であるようにぼくは感じる。この心臓の位置にぴったりと嵌まり込んでぜんぜん取れそうにない魂と一緒に、ぼくたちは生きていくしかない。
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