あかねの(ための)一首評 8


いまきみの脳は機能を失ってぬれたガーゼに包むみつばち

加藤治郎『昏睡のパラダイス』より


「きみ」はだれを指すだろう。みつばちのことだろうか。違う気がする。うまく説明できない。主体とみつばちの歌と捉えても解釈はできるけど、ぼくは直感ではそうは思わない。みつばちを包むもうひとりの登場人物=きみがいるはずだ。きみがいるのだとしたら、主体は、きみがみつばちをガーゼで包むところをただ見ている。ぼくにはそう思える。

 みつばちの死骸はめずらしいものじゃない。よく見るほどじゃないけど、秋の終わりのアルミサッシとかに、力なく横たわっている様子をときどきは目にする。そのときぼくはどう感じるだろうか。かわいそうとは思わないだろう。面倒くさいとすら思うかもしれない。窓の外に投げるか、ティッシュでつまんでゴミ箱にポイだ。日常は忙しく、ちいさな蜜蜂の死に心を痛めている余裕はない。

 でもきみは違った。そのみつばちの死骸を見たとき、「きみの脳は機能を失って」しまった。日常性の消失。あるいは、人間性の消失といってもいい。きみは壊れ物をあつかう手付きでみつばちをとりあげる。きみが用意するのはただのガーゼじゃない。ぬれたガーゼだ。釣り合わない手間だ。そうしなければならないとでもいうような、なにかに衝き動かされるような、いや違う、なにかが抜け落ちてしまったような動きできみはみつばちをガーゼで包む。

 同情、なのかな。

 もしそれが同情と呼ばれる感情であるなら、それは非人間的な感情であるのかもしれない。主体はそれを目の当たりにする。立ち尽くすことしかできない。

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