あかねの(ための)一首評 22


天国は近くにあると教えられすべてのルンバが海に向かった

からすまぁ(うたの日『自由詠』より)


 ある日ルンバがいっせいに海に向かう。そんなの一度も起きたことないはずなのに、ぼくたちはそれがいかにも起こりそうなこととして受け入れられる。その絵的なイメージ喚起力がこの歌の最大の魅力だ。

 歌としては、意味の解釈にかなり幅のある歌である。ぼくが気づく限りでは次の感じだ。

・天国は人間の天国か? それとも機械の天国?
・教えられたのは単独のルンバか?
・教えたのは誰か?
・天国は近くにあるとルンバが教えられたことを第三者は知りえたのか?
・ルンバが海に向かったのはなぜか?

 ぼくの解釈を述べる。まず、ルンバに天国をささやいたのは人間には不可知のなにかである。ルンバは(人間の天国とは別の)機械の天国の存在を知った。知ったのは単独のルンバだ。しかしすべてのルンバが同時に海を目指した。ルンバが海へ向かったのは天国に行くためだ。最初から死ぬつもりだったのか、結果的に死んだのかはわからない。ルンバは天国を目指し、そして次々に入水した。以上の顛末を第三者は知りえず、はた目にはルンバが突然制御不能になって暴走したように見えた。唯一、"読者"(つまりぼくたち)だけには何が起こったかが語られた。

 気づいた人もいるかもしれない。ぼくは手塚治虫の『火の鳥 復活編』を念頭に置いてこの歌を解釈した。復活編では、ロビタと呼ばれるロボットが一斉に溶鉱炉に身を投げ入れる。調べれば復活編はちょうど50年前に書かれた話で、つまりぼくが思ったのは、「ロボットが制御不能になっていっせいに自殺する」というモチーフは、ぼくたち人類のすごく深いところに根付いているものなのだ、ということだ。

 なぜだろう。

 おそらく、だけど、ぼくたちの心のどこかには、ロボットに対する「かわいそう」という気持ちがある。ロボットはもちろん道具で、人間の生活を便利にするために作られる。近年のインテリジェント家具というのは歴史的にはかなり特異的な道具で、人類が人類史で作ってきたほとんどの道具には"自分で判断する能力"が備わっていなかった。

 アニミズム信仰ってのはものに魂が宿るとする考え方だ。日本にも付喪神ってのがいて、それは長く使われた道具に神や精霊が宿るとする考え方だ。しかし、これらはロボットとは少し異なるようでもある。なぜなら、ロボットには最初から心があるようにぼくたちには見えるからだ。

 それがかわいそうの源泉だ。

 スイッチを押されれば黙々と掃除するしかできないルンバにぼくたちは同情している。そして、どこかで申し訳ないと思っている。だからこそ、いつか彼らには人間から解放されてほしいと願うのだ。

 …ここまで書いて思ったけど、でもそれ、ルンバが死ぬ理由にはならないよね。ルンバがどうして天国を目指さなければならなかったのか、ぼくにはそこがよくわからない。もしかしたら、それは、人間には絶対にわかりえないものなのかもしれない。そういう気がする。

 ルンバは天国に行けたのだろうか。

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