あかねの(ための)一首評 17


うん、好きさ、洗濯ばさみの真ん中にある針金に誓ってもいい

近江瞬(『飛び散れ、水たち』より)


 これはつまり、めちゃくちゃに煽った別れ話なのかどうか。

 シンプルに捉えるなら、男が不貞を働いたとかはじめから遊びだったとか、そういうのを女に指摘されてなじられてて、男的にはあとはもう、どのくらい酷く捨ててやろうかみたいな、そんなシーンにも読める。ケンカでモノがぶちまけられた床に洗濯ばさみが落ちていて、男はそれを見つけてつぶやいた。当てつけってわけだ。

 そんなふうに読んでもいい気はするんだけど、ぼくはこの歌からは違った印象を受けた。

 誓うという行為は、日本人には馴染みが薄い。海外ではどうだろう。聖書に誓うシーンはドラマとかではよく見るけど、実際に頻繁に行われてるのかはぼくにはわからない。

 ぼくらが一番目にする誓いは結婚式だろう。健やかなるときも病めるときもこれを愛することを誓います。ぼくの感覚だとこれは宣言といった感じで、神の御名に誓っているという感じはしない。日本人は何かに誓うわけではない。そんな感じがする。

 そう考えると、「洗濯ばさみの真ん中にある針金」に誓ったことには、あんまり意味はないんじゃないかとぼくは考える。洗濯ばさみの針金は、やはりたまたま目の前にあったのではないか。

 これは想像になる。よく晴れた休日、男と女は一緒に洗濯物を干している。ベランダには物干し竿が渡してあって、たくさん洗濯バサミのついたピンチハンガーがぶら下がっている。ふたりはそれぞれのペースで洗濯物を吊っている。

 そんなとき、男はふいに「うん、好きさ、」とつぶやいた。聞こえないくらいの声で。男は女を愛している。そして、今後も彼女を愛したいのだという決心がふと湧き上がった。だから誓ったのだ。そのときたまたま目の前で揺れていたのが洗濯バサミだった。

 ぼくにはそんな歌に思える。

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