あかねの(ための)一首評 20


みそ汁がさみしいひとはいませんかここにえのきが落ちていますよ

北山文子(『短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇』より)


 調べてみるまで知らなかったのだけど、寂しいと淋しいはどうやら同じ「さみしい」でもニュアンスが違うみたいだ。

 寂しいのほうが広い意味で使われる。①物足りないさま、②静かであるさま、③孤独であるさま。一方で、淋しいと書くときはもっぱら③孤独であるさまを表して使われるようだ。

 まず、寂しいに3つも意味があるというのは驚いた。いままでなんとなくで使ってきたから気づかなかったけど、確かに言われてみると①②③のどれも寂しいと表現する。ぼくの感覚では、寂しいは②静かであるさまのニュアンスが強くて、それは静寂って熟語が脳裏にちらつくせいだ。でも、この歌の解釈をするには①物足りないさまからスタートするのが適当であるように思える。

「さみしい」。それはまず第一義に、みそ汁の具が少ないという意味である。理由も書いてあって、「ここにえのきが落ちていますよ」からだ。因果関係におかしなところはないけど、これはずいぶん妙なシチュエーションな気がする。

 具のえのきだけを落とすことがあるだろうか。普通に考えれば汁もこぼれそうなものだ。この歌の喚起するイメージはこぼれたみそ汁ではなくて、単体のえのきが床に落ちているというものだ。それはちょっと変だ。しかも、「みそ汁がさみしい人はいませんか」と呼び掛けている。具が少ない人がいたとして、えのきを増量したりするんだろうか。なんだか変だ。

 ぼくの直感的な理解では、これは実景を詠んだものではない。なにか具体的なエピソードって感じがぜんぜんしないのだ。もっと抽象的な、例えば広い舞台の中央、じゃないな、たぶん右端あたり、にスポットライトが当たって、そこにえのきが落ちているみたいな、ぼくはそんな印象をこの歌に持っている。

 さて、①物足りないさまから解釈を進めてきたけど、この歌の「さみしい」は明らかに②静かであるさま③孤独であるさまをつよく連想させる。ひらがなで書いてあるしね。表面的にはこの歌はすごく叙事的=事実だけを書いているんだけど、でもやっぱり、この歌は、すごく純粋な「さみしい」という感情を歌い上げている、そんな気がする。

「さみしい」ってさ、誰がさみしいんだろう。

 日本語って主語が省略されるじゃないですか。だから、わたしはさみしい(I'm lonely.)と、それはさみしい(It's lonely.)のどっちもが同じ「さみしい」で表されてしまう。松尾芭蕉とかすごくそうだと思うんだけど、わたしはさみしいとそれはさみしいは日本人的には区別がつかないというか、そのふたつを同化してしまうようなところが、ぼくたちにはある気がする。

 純粋なさみしさの抽象とそれへの同化。この歌の正体はそれだ。ぼくはこの歌がさみしくてしょうがない。

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