あかねの(ための)一首評 2


ひとしきり母の叫びが風に添う 雲のぷあぷあ草のれれっぽ

加藤治郎『マイ・ロマンサー』より

過去のぼくのツイート

再解釈

 未来の自分は他人だと思ってコメントを残せ、というのはコーダーなら身にしみてわかっている。自分が書いたコードなのに何がしたかったのかさっぱりわからないのは日常茶飯事だ。人間とは忘却する生き物で、過去の自分が何を考えていたのかは断片的に推測するしかない。

 というわけでぼくは当時なにを考えて一連のツイートをしたのかはさっぱり覚えてない。つまり完全に他者が書いたテキストのように読んだ。おおむね論に飛躍はなさそうだ。脳の解体という結論ありきに見えるところもあるけど、無理筋ではない。ただ、いまのぼくの感じ方とは違ったので再解釈してみる。歌を再掲する。

ひとしきり母の叫びが風に添う 雲のぷあぷあ草のれれっぽ

 上の句は保留されるような情景描写だろうか。そのままでも解釈できるのではないか。

 まず、叫びだ。字義通り叫んでいると捉えてもいいけど、人間が「ひとしきり」叫ぶシチュエーションは想像しにくい。そうではなくて、母が大声でまくし立てるのが、言葉の細部が遠のいて叫んでいるように聞こえているのではないか。つまり、怒られているのだ。それをやり過ごしている。

 ひとしきりは、一度発生したらしばらく続く様子を表す。さらに、その出来事を過去にも経験したことがあるニュアンスを持っている。虫の居所が悪かったのか、おそらくは外で、少年(少年だろう)は母の癇癪が静まるのを待っている。

 そんなときに見えたのが「雲のぷあぷあ」「草のれれっぽ」だ。こころが無になっている少年は衒うことなく世界を見るはずだ。曇りなき眼に映ったものがぷあぷあとれれっぽであるのだから、それはシンプルに世界を捉えていると考えていい。

 ぷわぷわじゃなくてぷあぷあ。どこか擬人化されたような開けっぴろげさを感じる。雲のキャラクター性だ。そう考えると、れれっぽにはどこかおどけたような印象がある。イネ科の雑草が風になびく様子は、わざとらしくお辞儀をする道化のようじゃないか?

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