あかねの(ための)一首評 5


できごころで彼に詩集を手渡してもうとりかえせない ああ 天気雨

はね『めたもる』

 今回はゲストとして吹田セイジに来てもらいました。信頼できるダチです。通話とチャットで短歌の解釈を互いに話し合いました。吹田の許可をもらったため、わたしさよならあかねがテキストにまとめる形で公開させていただきます。ご協力ありがとうございました。

吹田の解釈

 まず最初に、短歌の印象を聞いた。好きでも嫌いでもない、というのがその答えだ。理由は、短歌の解釈が唯一に定まらないから、というものだった。具体的には「できごころで」と「もうとりかえせない」の部分。ぼくにとってとても新鮮な解釈だったんだけど、吹田はこれらのひらがなで書かれた部分については、字面通りではない可能性があると言った。

 できごころとは、ふいにたち現れるような気の迷いだ。すぐに消える衝動でもある。それを普通に読むなら、詩集を渡したのはまさに出来心であるはずだ。ポイントはひらがなである点で、吹田はひらがなで書かれている特別性から、まったく逆の読みもできるのではないかとした。根拠は次だ。

 前提として、主体は女性であると仮定して話をすすめる。このとき、吹田は自身が触れて育った時代の作品として灼眼のシャナやゼロの使い魔をあげた。これらの共通点。そう…ツンデレだ。吹田にとって女性とは、喋っている発言が本心ではない可能性を持った存在である。

 できごころは、出来心ではない。詩集を渡すことははじめから織り込み済みであり、むしろ渡すために普段から詩集を持ち歩いていた。その自身の振る舞いを、「できごころで」という嘘で表現しているというのだ。

「もうとりかえせない」についても、字面通りではない解釈があり得る。吹田は、取り返せない理由をもう会うつもりがないからとした上で、実際にはまた会いたいにも関わらず、もう会わない=取り返せないという嘘を付いている、とした。ツンデレは自分にも嘘を付く。この主体は会いたいのに会いたくないと思い込んでいる。

 吹田の短歌の好みの一つには、解釈が確定する歌があるという。短歌は余白を扱った韻文であることを前提として、その余白の形は、明確な場合も、曖昧な場合もある。この歌はひらがな部分がツンデレ的な逆の意味かもしれない曖昧さを残しているから、解釈が確定しないというのだ。

 最後に、解釈を選べるとして、一番好きな解釈を教えてもらった。

 主体はできごころ「ではなく」、意図的に詩集を渡した。これは自分の好きなものを知ってもらいたい気持ちと、詩集を返してもらうときにまた会うことができるという計算だった。しかし、「もうとりかえせない」。関係は破綻した。再び会う機会は失われたのだ。天気雨は降ったり止んだりを繰り返す。この悲しみもまた、天気雨のようだろう。

できごころで彼に詩集を手渡してもうとりかえせない ああ 天気雨

あかねの解釈

 まず、「ああ」が感情の中心である。天気雨は特殊な雨だ。ふだんぼくたちは雨が降っていることには気づいても、それが天気雨であることには気づきにくい。空を見なければわからないからだ。ぼくは、天気雨はこのとき降り出したのではないと思う。そうじゃなくて、主体はこの雨が天気雨であることに気づいたのだ。ああ、晴れている。

 その原因となったのが「もうとりかえせない」ことだ。ひらがなで書かれていることは、ぼくはツンデレではなくて、主体の感情を含んでいるからだと解釈する。主体は雨の中で、何かが取り返せないことを心で理解した。だから空を見上げたのだ。何を理解したのだろう。

 吹田の解釈と違って、ぼくはこの詩集は、主体の自作であるように思えた。根拠はない。詩集が自作か他作かは手がかりがないけど、ぼくには主体が自分で書いた詩集であるように思える。出版されるような立派なやつじゃない。ノートにちょっとずつ書き溜めるような、ほんとは誰にも見せちゃだめなやつだ。

 それを「できごころで」手渡してしまった。主体は悔いているのだろうか。違うだろう。ふたりの関係は特別なものであると予想できるけど、この詩集を渡したことによって、なにか特別な変化は起きないように思える。よくもわるくも変わらないだろう。

 ではなにが「もうとりかえせない」のか。本を返してもらうことはできる。「彼」は適切な沈黙を守ってくれるだろう。でもそうじゃない。詩集は読まれてしまったのだということ。その事実を、無かったことにはできないのだと。

 ああ、天気雨が降っている。

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