あかねの(ための)一首評 7
一斉に飛び立ってゆく伝書鳩 いまものすごく君に会いたい
解題
伝書バトにリアリティがあった時代はいつまでだろう。東京オリンピックの開会式では放鳩が行われたという。テレビがカラーに変わった時代だ。いちばん大々的に伝書バトを見る機会があったとすればそれで、当時リアルタイムに見た人なら還暦はもうとっくに過ぎている。
通信としての伝書バトはオリンピック以後役割を終えて、現在はもっぱらレース鳩として活躍している。いままで知らなかったのだけど、調べれば各地で頻繁にイベントがあるそうだ。それを一般化はできないけれど、「一斉に飛び立ってゆく伝書鳩」はいますごくフィクショナルで、ぼくたちにとって現実に経験した出来事ではない。
さて、解釈の肝になるのは、この伝書バトは「君」に向けた通信ではないだろう、ということだ。伝書バトはそれぞれ特定の場所に帰る性質を持つ。大量のハトを君に届けたいのでない限り、これは鳩レースか、または大イベントの祝賀を日本中に届ける放鳩だと考えられる。主体はそれを見ている。
ハトにはみんな帰る場所がある。それはとりもなおさず、待っている人がいるということである。時には1000kmもの距離を超えてハトは待ち人のところまで帰っていく。それが一斉に飛び立つ光景を見て、主体はつよい郷愁に駆られたのではないだろうか。
…ほんとに?
ぼくの解釈
ぼくが歌を読んで連想したのは、ハンター×ハンターのコクチハクチョウのシーンだ。キメラアント編の最初の方でセミプロのハンターと交わした故郷を見せるって約束が、なんと7年ちかく経って回収された話だ。冨樫の画力と作劇のちからだろう、ゴンたちが見たハクチョウの羽ばたきはぼくにも聞こえるようであった。
前項の解釈の通り、すなおに読めばこれは主体が待ち人のところに帰る歌だ。だけど、伝書バトのリアルを知らないぼくたちにはこれは鮮烈な風景でもある。「一斉に飛び立ってゆく伝書鳩」を、主体は君に見せたいのかもしれない。
美味しいものを食べたとき、素敵な音楽を聴いたとき、そして綺麗な夕焼けを見たとき。最初に思い浮かべるのは君の顔だ。この体験をすぐにでも君と共有したい。ぼくにはそんな歌に思える。
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