あかねの(ための)一首評 13


また雨に打たれてアンヌその視野に強い光をきらうだろうか

小林通天閣(新進歌人会 第八回歌会より)

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 通天閣氏についてぼくは詳しくない。京大のほうで短歌(ほかいろいろ)やってる人くらいの認識だ。いまも長髪なんだろうか。フォロワーが3000人くらいいて、これは出版社を通じて歌集を出したことのある歌人より多かったりする数字だ。

 氏についてのぼくの印象は「ちゃんと」短歌をやってる人、というものだった。なにがちゃんとなのかはよくわからない。とにかく、界隈では頼られているし、一目置かれてる感じがあった。

 そんな通天閣氏が歌会をやるといった。歌会。みなさん参加したことありますか? ぼくはなかった。なんか難しい顔したあんちゃんたちがエモーション棒で互いをボコりあうみたいないい加減な印象しかなかった。それは未知への恐怖だ。ぼくなんかが参加したらぼこぼこにされると普通に思っていたし、一生関わりあうことなんてないんだろうなーと思ってた。でも通天閣氏の歌会なら大丈夫な気がした。ちゃんとしてそうだからだ。そういうわけでぼくは人生で唯一、ツイッターではない場所でさよならあかねをやってきた。

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 歌の話をする。歌会には6首の歌が提出され、それぞれについて1時間(!?)ずつくらい参加者一同で語り合った。それは望外の楽しい時間だったのだけど、ぼくは掲載歌についてあまりいい感想を持っていなかった。鼻につく感じがしたのだ。

 今日、部屋を整理していて当時の資料が発掘された。久しぶりに6つの歌を眺めてみたとき、ぼくにとって一番印象的だったのがこの歌だ。当時あんまり好きじゃなかったのに。だからその謎を解きたい。

また雨に打たれてアンヌその視野に強い光をきらうだろうか

 やはり、全体的に鼻につく歌だ。「きらう」がひらがなに開かれてる点、アンヌというあざとい人物名を使ってる点が特にそうだ。でもそれが歌全体に対して効果的に働いてるのではないか。時間がたってみて初めて、そういう可能性に気が付いた。

「その視野に強いひかりをきらうだろうか」は実景ではない。それは主体がアンヌを見て想像したことに過ぎない。女の人が雨に打たれていることは事実だろう。主体はそれを見ている。しかも、なんども見たことがある。事実だけを取り出すと、この雨に打たれている誰かは、結構な変人にも思える。なんらかの感傷を抱えて雨の中に立っていると想像することは飛躍した考えではない。

 しかし、「その視野に強い光をきらうだろうか」は行き過ぎた妄想に思える。主体と雨の中の女はどんな関係だろう。まったくの無関係ではない気がする。でも、いま一歩踏み込んだ関係ではないだろう。あるいは踏み込むつもりがないのか。これはぼくの感じ方だけど、「アンヌ」は、主体が女を呼ぶときに自分の中で使っている渾名という感じがする。歌全体から匂い立つわざとらしい感じが、すべてが主体の妄想であるような印象を残すのだ。

 雨の中に女がいる。天気雨かもしれない。離れたところから主体はそれを見ている。そして勝手な妄想にふけっている。なんとも気持ちのわるい美しさじゃないか。

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