あかねの(ための)一首評 23


ふきのとうバズーカ、それは    春なのに散らかしほうだいの庭であった

はだし(Twitterより

 一見して意味がわからない、それでいて不思議な存在感のある歌だ。

 切れ目を探してみると、ふきのとうバズーカ、/それは    /春なのに/散らかし放題の/庭であった、で93596になっている。読むときは春なのに~をひと息で読むとスッと入ってくる。

 表現的には素直じゃないところが二箇所ある。

 ひとつ目。「それは」のあとのスペース。半角スペースが四つなんだけどそれにはあんまり意味がなくて、表現上欠かせない空白が必要十分確保されていると予想できる。ここに空白がないと、57577のリズムで読み下したくなる。だからこの空白には、春なのに~をひとまとまりにする効果がありそうだ。

 ふたつ目。「庭であった」である点。庭だった、とするとぴったり31音になる。ひとつ目の素直じゃない点とあわせて、意図的に短歌のリズムを崩そうとしている。しかし、この歌は短歌から足を踏み外してはいない。際どいところで短歌として成立してる。そのバランス感覚。もしもの話だけど、#tankaタグなしでぼくがこの文字列をみたら、ぼくはこれを短歌だと見なしただろうか。

 そして「ふきのとうバズーカ」だ。いままで誰がこの二つを組み合わせただろう。でも一度知ってしまうと、なるほどふきのとうはバズーカだ。ぼくにとってバズーカは"砲身から""水平方向へ"飛ぶもので、そのイメージはこの歌を読んだあとでも覆ってない。でも、ぼくはふきのとうを見るたびにふきのとうバズーカだなぁと思い出すだろう。それほどこの言葉の持つ比喩のちからは大きい。

 * * *

 ………………じゃあ、どういう歌なんだろうって色々と考えを捏ねてみたけど、ぼくにはこの歌の意味するところはやっぱりわからない。解釈に挑みたい人は、春「なのに」である点、「散らか放題」である点(散らか放題ではない)にぜひ挑戦して欲しい。

 すごく率直に、たとえば子どもが、たぶん一人の子どもが、ふきのとうを千切っては投げ千切っては投げ、ぽいぽいぽいと庭が散らかっていくような、そんな単純なイメージがぼくにはいちばんしっくり来る。

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