あかねの(ための)一首評 1


友だちの友だちがパーマン、パーマンの友だちの友だちに照る月

牛隆佑「スローモーションの雄叫び」より

内容理解

 友だちの繰り返しはなぜ2回なのだろう。一般的に考えて、友だちの友だちは他人である。友だちというのは親密な関係性なのに、たった2回の繰り返しで他人になってしまう。ここでは、意外なほど近くにある他者性を浮き彫りにする効果があると思う。

 さてパーマンだ。友だちの友だちがパーマンなのだから、ここではパーマンは他者なるものとして描かれる。だがパーマンは人間ではない。身体を持った人間としての他者ではありえない。エイリアン的で異質。これはぼくの感覚だけど、パーマンはおじさんなぼくからしても名前しか知らないキャラだ。具体性をなにも帯びない、とにかくそういうキャラがいたのだという理解しかない。それは不気味な理解である。パーマンは無貌なるものとしてそこに存在する。

 折り返して、歌はパーマンの友だちの友だちに言及する。これは主体のことだろう。行って、戻ってくる自分。果たしてそれは自分と同じものと言えるだろうか。これは『悪魔のミカタ』というラノベの大好きな表現なんだけど、首が180°回転するのを2回繰り返したら顔は正面を向いている、それは元に戻ったと言えるのだろうか。

 そして照る月だ。これもすごく他人事な表現で、パーマンの友だちの友だちたる自分を、主体はどこか離れたところから見ている。月は異界の象徴、というか異界そのもので、すべてひっくるめて、自分という存在がパーマンという異質を介在することで別のなにかに変容してしまったかのような強烈な印象を残す歌だ。同時に、それからひどく取り残されている感じも。

技術考察

 同じフレーズを繰り返す歌はともすれば安易になりがちだけど、この歌は「友だちの友だちがパーマン」という、ある種のパワーワードが繰り返しを肯定している。二回目の友だちの友だちは逆方向の矢印であり、かつ、同じ場所なのに違う場所に帰ってくるという作用を持つため、これも繰り返すことに意味がある繰り返しだ。

 真ん中の読点(、)はぼくには解題できなかった。いわゆる読点としての意味はなさそうだ。文字列を空間的に区切るための役物として、最適ではあるように思える。歌を再掲する。

友だちの友だちがパーマン、パーマンの友だちの友だちに照る月

 短歌は全体で左右対称になっている。ここでは横書きで書かれたこの歌について解釈を続ける。読点の位置にあるのは異質としてのパーマン、その異質性そのものだ。だから読点がふさわしい。閉じていない記号であること、間を示す記号であること、などがその根拠になる。こう見ると「照」という字は象形文字であると同時に、異界なる装置に見えてきて面白い。

 この歌、どこからつくられたんだろう。やはり友だちの友だちがパーマンというキラーフレーズを思いついたところからか。その一見の面白さに振り回されることなく、全体のバランスや歌意が整えられていることは驚嘆に値する。最初の発想はアイデア先行的だけど、歌にまとめる作業では経験がものを言いそうだ。

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