あかねの(ための)一首評 21


冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人

笹井宏之 『てんとろり』 より


「たったひとりの理解者」である。おそらく、他にも人がいる感じだ。静かな場所というよりは雑踏だろう。往来を人が行き来している。そして雨が降っている。雪ではなく。冬の雨は冷たい。雪よりも冷たい感じがする。そんな冬の雨が降っていて、人々はみんな傘をさしている。傘をさして早足に歩いている。それは急かされる光景だ。急かされる光景のなかで老人だけが立ち止まる。ゆっくりとした動作。ゆっくりとした動作で傘をたたむ老人。そこだけ時間の流れ方が違うようだ。老人は周囲から取り残されている。そして雨に打たれる。

 ぼくがイメージするのはそういう光景だ。どちらかといえばぼくも雑踏からは距離を置くほうだし、傘をさすのを好きじゃない気持ちもわかる。ちょっとした雨なら濡れる方を選ぶしね。でもこの老人は道中傘を畳んで雨にうたれようとしてるわけで、すごくアウトローな感じだ。奇異の目で見られると思う。人が多いところなら特に。でもやった。

 ぼくの高校の修学旅行は中国だった。細部はほとんど忘れたけど万里の長城に行ったのを覚えてる。んで、大変おろかなことに、ぼくはなんと万里の長城に登らなかった。入り口的なとこで待ってるといって他のメンバーの失笑を買った。ぼくがなにをしていたかといえば麓?の露天を冷やかしそこなって柄にアインシュタインが象嵌された50cmくらいの模造刀を買わされたりしてた。買ってばかりだ。とにかく万里の長城には一歩も入らなかった。なぜか。なんだか、あのときはそうしなければならないような気がしたのだ。

 これが共感なのかはわからないけど、ぼくは老人が雨傘を畳んだ理由がなんとなくわかる気がするのだ。冬の雨は骨身にしみるだろう。強く生きてほしいと思う。


* * *

 話は変わって、視点の話をする。あくまで私見なんだけど。この光景を詩的であるとする感性は、なんというか、ほんのちょっとだけあさましい感じがする。そりゃあエモいもん。「たったひとりの」だぜ? そんなに盛らなくてもいいだろって感じちゃう。

 ぼくはこの歌が好きだし、この歌はすごい完成されていると思う。でもそれとは別の次元で、この光景に「たったひとりの」を当ててしまう精神性は浅ましい。それはつまり、この歌の主体の視点が浅ましいということだ。

 この主体は老人と同じく、雑踏から距離をおいた位置にいる。おそらくはほんのすこしだけ恵まれている。そんな場所にいながら、ふと老人が雨傘を畳むのを目撃した。それで感傷的な気持ちになったのだとしたら、なんというか、それはとても傲慢なことなんじゃないか。

 物事を詩的に捉えるというのは傲慢なことなのかもしれない。お前はなにさまなんだと。ぼくはなんだかちょっとだけこわくなった。そんな歌だ。

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