あかねの(ための)一首評 9
さようなら美徳としての鉄の斧 女神は手指の匂いを嗅いだ
読む人の感じ方で、2通りに読める歌だと思う。
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まずこれは、金の斧銀の斧をモチーフにした歌である。これは『隣の爺型』と呼ばれる物語類型のひとつで、典型的にはこぶとりじいさんみたいに、正直じいさんが成功して、いじわるじいさんが失敗する話の一種である。
1つ目の解釈は、木こりが正直者だったパターンだ。女神は正直者の木こりに金の斧と銀の斧を渡し、そして鉄の斧を返した。三つの斧を手にしたあとの木こりについて物語は多くを語らない。だが、木こりは木を切るものだ。彼は立ち去らなければならず、女神はそれを見送ったはずだ。
女神が「手指の匂いを嗅いだ」のは別れを惜しむためではないか。よきものとしての木こりに女神はどのような感情をいだいたのだろう。木こりが木こりであるように、女神もまた女神であるのだ。鉄の残り香。それは人間の生活の匂いだ。
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2つ目の解釈は、木こりが嘘つきだったパターンだ。そもそもの問題として、木こりはわざと鉄の斧を投げ込むのだけど、女神はそれを知っているような気がする。男は臆面もなく金の斧が自分のものであると主張する。女神は怒っただろうか。それとも失望したか。鉄の斧は木こりに返されることはなく、女神はもはや彼を省みることはない。
では、なぜ「手指の匂いを嗅いだ」のか。嘘つきの木こりが立ち去ったあと、女神は川底の鉄の斧を拾い上げた。そう、これは人間の悪行の象徴として、彼の者が意図的に投げ込んだものである。そんなものを沈めたままにはできない。
手の内に残ったのは錆じみた鉄の匂いである。女神は期待したのだ。人間に。人間の美徳に。でもそれは永遠に失われてしまった。女神にはそれが少しだけ悲しい。
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この歌が面白いのは、2通りに解釈できながら、両面性を持った歌ではないという点だ。性善説か、性悪説か。この歌は見るものの性質を反射し、ぼくたちに問うだろう。あなたはどっちなんだと。
…
書いてみたけど、なんとも嘘くさいと言うか。この文章にはぼくがいないや。解釈を捏ねてる気がする。
さようなら美徳としての鉄の斧 女神は手指の匂いを嗅いだ
イソップ物語に出てくる女神は、なんというか、舞台装置で、感情を持った生命であるようには描かれない。そもそも女神は神であるからして、宗教的な観点からは人間の上位存在で、それは理解の対象ではない。
ぼくが面白いと思うのは、この歌は女神を主体とした歌であるという点だ。舞台装置にすぎなかった女神にスポットライトを当てた。その発想の転換。この女神は神というには少しウェットすぎるかもしれないけど、そんな女神のほうがぼくは好ましく思える。
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