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大好きなおばあちゃんとの思い出


今日、16時ごろ祖母が他界した。94歳、大往生だった。

正直泣き疲れて、シワシワだけど、毎日近く残そうと決めたから、気持ちの整理のためにも言葉にしておく。そしておばあちゃんは、とても働き者で筆まめだった。だからわたしも働き者で筆まめでいたい。

わたしのおばあちゃん

福岡のいちご農家の長女で一人っ子で生まれたおばあちゃんは、婿をとっていちご農家を継いだ。とても頭が良かったらしく、当時の田舎では珍しく、特待で女学校に進学することを勧められたらしいけど、家庭の事情で結婚したらしい。戦争も体験して、将校さんのもとで日本のために戦ったとか聞いたことがある。とても優しくて働き者で賢いおばあちゃんだった。

いちごの思い出

わたしはいちごが大好物だ。子どもの時、大阪から春休みや夏休み、年末に福岡のおばあちゃんちに行く。いちごの時期なら、いちごを詰めるプラスチックの容器を持って、おねいちゃんとハウスに行く。すると真っ赤ないちごがたくさんなっている。ハウスの中でいちごを摘んで、直接ぱくぱく食べる。綺麗な三角のいちごは甘くて美味しいし、連なって横長のいちごは、一度にたくさん食べられる。お母さんからは、形がいいのは売り物だから食べちゃダメ!と言われるけど、おばあちゃんはニコニコして「たべない、たべない」という。博多弁で「いいのよ、食べなさい食べなさい」という意味だ。

年末の12月30日は、親族が揃って餅つきをしていた。幼い頃は本当に臼と杵で餅をついて、中学生ぐらいから電自動の機械がくるくる回ってつくようになった。つきたての熱々の餅をおばあちゃんは、素手でちぎって、小麦粉がかかった板のテーブルの上に投げてくれた。それを従兄弟と一緒にくるくる丸めて、九州の丸餅を作る。必ずあんことクリスマスシーズン用のいちごを持ってきてくれて、贅沢ないちご大福を作って、すぐ食べた。

野菜も米も作っていて、帰り際には、「これも持っていきない、これももっていきない(持っていきなさい、持ってかえりなさい)」と、バッグがぎゅうぎゅうになるほど、いろんなお土産をくれた。

大阪にいた頃は、よくおばあちゃんから荷物が届いた。大体段ボールの下に、新米。そして野菜といちごパック。いちごは2種類あって、形の良い売り物のいちご。もう一つは、木苺みたいな小さいものや、歪な形のもの。歪な形は、お母さんと一緒にジャムにしたり、いちごジュースの素にして、牛乳を入れて飲んだり、アイスにしたりして食べた。子どもの頃のわたしは、いちごはおばあちゃん家から届くものだった。大人になって、いちごがこんなに高いと知って驚いた。

おばあちゃんは、いつも”お小遣い”をくれた。遊びに行くと、お母さんが見ていないところでこっそりと。大体帰る前に行くトイレを出て手を洗って戻ろうと、電話の前を通るとおばあちゃんが待っていて、「かよちゃん、これちょっとだけど、好きなアイスでも買いない(買いなさい)」と言って、お札を4つ折にしてティッシュで包んだお小遣いだ。大人になるまでそれは続き、最後に会った2年前も、次女を産んだわたしにそうやってお小遣いをくれた。その額はちょっとずつ、少なくなった。それはちょっとおばあちゃんの老いを感じて悲しくなったりもした。歳をとってもらう年金の中から、昔からの習慣で、ちょっとお小遣いをくれていたんだと思う。もうわたしも仕事をしているし、娘もいて、全然子どもじゃないんだけど。最後の最後まで、おばあちゃんはわたしにティッシュに包んだお小遣いをくれた。

どんな時も応援してくれたおばあちゃん

おばあちゃんのことが大好きだった。おばあちゃんはいつも私を応援してくれていた。どんな時も、肯定して応援して「佳世ちゃんは、がんばりやさんたい。えらかね。」と。中3で引っ越して、不慣れな土地で塾に通って勉強している時も、高校生の時も、大学でサークル活動にかまけて本来行くべき研修を断り、私は今、研修よりサークルのこの役職が大切なの!とわがままを言って、母親を困らせていた時も、おばあちゃんは応援してくれた。「佳世ちゃんが自分で決めたことだけん、応援せないかんと!」と。お母さんを説得してくれた。おかげで納得するまで没頭できて、その時の経験は今に生きている。新卒社会人の時も、内定が出た会社のことを心から喜んでくれたのも、おばあちゃんで、そんな会社をたった数年で辞めて彫金を勉強するとか言い出した時も、全部丸ごと受け止めて応援してくれた。その数年後、おばあちゃんにホワイトゴールドで指輪を作ってプレゼントした。そんなこともあった。

付き合ってようやく8年目に結婚した夫を、おばあちゃんちに連れて行った時は、それはそれは喜んでくれた。「大切にしない、大切にしないよ(大切にしなさい、大切にしなさいよ)」と。私の手をとって、とても喜んでくれて、夫のことを大切にしなさい、何があってもあんたが手を離したらいかんと何度も言った。なかなか子供に恵まれず、流産してしばらくして帰省した時、母親がいない間におばあちゃんと2人でたくさん泣いた。30過ぎて、おばあちゃんの膝でおいおい泣いた。おばあちゃんも一緒に泣いてくれた。だから尚更、長女が生まれた時、抱っこしてもらって嬉しかったし、さらにコロナ始まりのちょうど2年前の今頃に生まれた次女を抱っこしてもらえて嬉しかった。

思い出は途切れない。いくらでも出てくる。ただただ、私の可能性を信じてくれたおばあちゃん。私の勝負の時は、家の裏にあった赤い鳥居の神様にお祈りをしてくれたおばあちゃん。何かあると、「ばあちゃんが祈っとくけんね。大丈夫たいね(祈ってるから大丈夫だよ)」と言ってくれた。おばあちゃんはわたしをいつも”できる人”として扱ってくれた。叶えられるし、実行できる。幸せになれる人だと、全く疑いなく信じてくれていた存在だった。

命を使って生きるということ

近くに住んでいたわけではないので、昔から頻繁に会っていたわけでない。子どもの頃も、大人になってからも、年に数回。特にこの2年は実家に帰れなかったので全く会っていない。

でも、2年前の今頃。生まれたての次女を見せることもできた。長く東京に住んでいた私の従兄弟の跡取り孫が、東京から戻ってきて結婚して、子どもが生まれ、おばあちゃんの家の敷地の中に家を建てた。ひ孫7人を抱っこして、コロナに感染することもなく、最後の最後まで、意識をはっきり持って、亡くなる2時間前まで歩けるようにリハビリをしていたらしい。入院期間は1ヶ月だけ。それまで自分が生まれた家で、ヘルパーさんにきてもらうこともなく、息子と孫とその妻とひ孫に囲まれて暮らしていた。近所の病院には、私の母が車で送迎し、病院ではおばあちゃんを慕って声をかけてくれる友人も多かったらしい。

おばあちゃんは、生まれたときに神様が与えてくれた命の星を燃やし続け、最後の最後の日まで、自分の命を最後まで残らず使って、命が溶けるように天命を全うしたんだと思う。

生きるとは命を使って何かをすること

学生時代に戦争を生き抜き、婿をとり、子供を3人育てて、それぞれ立派に嫁がせて、夫を看取り、家を護り、孫が7人、ひ孫が8人。70歳を過ぎて書道を始め、絵を学び、俳句や華道を趣味として、いつも強く優しく見守ってくれた私の大好きなおばあちゃんは、94歳で今日この世を去った。

嗚咽をあげて泣くわたしを見て、長女が心配そうに尋ねる。どうしたの?何が悲しいの?と。

えりのいちごのおばあちゃんが今日、神様のところに帰って行ったんだよ。

ーなんで?
生まれてくるときに、神様から与えられた使命を全て果たしたから、神様が帰っておいで、って言ったんだよ。

ーかみさまのところに行って何するの?
何するんだろうね。しばらくゆっくりして、神様に報告するのかな。こんなことしてきましたよって。

ーふーん、そしたら神様なんていうの?
よく務めを果たしましたね!っていうんじゃないかな?

ーふーん。えりちゃんはかみさまのところに行く?
えりは来たばっかりだからね。まだまだやることがあるでしょ。神様からこれをやっておいでって使命を与えられているから、それをやり遂げて帰るんだよ。今からそれが何か探そうね。

ーふーん、ママは?
ママね。ママはなんだろうね。少しだけ見えてきた気がするけどね、なんだろうね。もっと一生懸命探さないといけないね。

ーママはいっしょうけんめいだよ。
そうだね、ありがとうね。

おばあちゃんの生き様を振り返って思う。人は生まれて死ぬまでに、その命を一生懸命燃やして使い果たしていくんだろうなと。何か目に見える大きな成果を世に残すことにのみ、価値があるわけじゃないなって思う。おばあちゃんのことは、きっと私の隣の家の人は知らない。でも、わたしはおばあちゃんが大好きだ。娘たちも、私の姉も、母親も、父親も、夫も、従兄弟も…おばあちゃんが大好きだ。もうこれだけで十分生きた証だ。こんな命の全うの仕方はかっこいい。本当に私のおばあちゃんはかっこいい。優しくて強くて最高の人間だった。

どうぞ神様のもとで、94年の人生で出会ったたくさんの人との思い出をたくさん話してほしい。15年前に亡くなったおじいちゃんも待ってただろう。従兄弟のお母さんも待ってるだろう。

最後の最後まで優しく気丈に生きたおばあちゃん、どうか安らかに。

2014年5月27日

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