短編小説「ランナー」


「ランナーはな、病気なんだよ」
 午後のワイドショーのランニング特集を見て、パパはため息混じりに呟いた。

 テレビ画面には、カラフルなウエアに身を包んだ話題のランナーたちが、休日の道路を埋めつくす様子が中継されている。沿道の人々は目を逸らして道を譲り、アナウンサーとカメラマンは、両手の隙間からこわごわと覗く。ランナーたちは頬を桃色に染めて、時に手を叩いて大声で笑ったり、また時に涙を流したりしながら、前方の一点を見つめて走っている。
「どんな病気なの?」
「足をひとたび止めると死んでしまう恐ろしい病さ」
「冗談やめてちょうだいよ。彼らは痩せるためとか、病気をよくするためとか、会社のストレスから解放されるために走ってるんでしょう?」
「最初はな、だれだってそうだったんだろうさ」
と呟いた。
「俺たちには関係ない話さ」
 パパは新聞紙に目を伏せて、それ以上なにも言わなかった。アナウンサーは震える手でマイクを握り直し「みなさん、お出かけの際はくれぐれも、ランナーたちにお気をつけください!」と声高に叫んだ。

 私はしばらくの間、テレビの画面に釘付けだった。でも、すぐに小学生の娘がトイレで泣き出して、聞こえないふりをしたけど、今度は中学生の息子とパパが昼食をせかし始めて、とうとう仕方なく席を立った。トイレをきれいに掃除して、ようやく台所へ戻ってきた頃には、ランナーの群衆はとっくに画面から消えてしまっていた。
 あの人たちは、一体どこに向かって走っているのかしら。

 * 
 目撃証言:スーパーの店員
「あの方ね、いつも夕方にいらっしゃるね。あの日も特に変わった感じはなかったよ。牛乳三本とビール数本を両手にぶらさげて、のしのし帰っていたっけねぇ」
 *

 翌週のPTAの会議で、一人の奥さんのことが噂になっていた。奥さんは以前控えめで目立たない人だったのに、最近まるで別人のように変わったと言う。
 たしかに、奥さんは先月から子供たちの登下校について良い意見を出しているし、青白かった肌も見違えるほど若くなって、髪も表情も艶やかになった。そう、まるで少女みたいに。若い男ができたんじゃないかとか、最新のエステに行ってるんじゃないかとか、他の奥さんたちは面白そうにはやし立てていた。

 その日、奥さんは華奢な肩におおぶりの鞄を下げていた。彼女が会議用の教室に入るなり、みんなの視線はそろって鞄に集中した。もしかしたら、あの鞄になにか秘密が隠されているのかもしれない。もちろん、だれも口には出さなかったけど、私は奥さんを変えた理由がどうしても知りたくなった。
 それで、休憩時間にトイレで会ったときに、私は思い切って聞いてみた。

「鞄の中にはなにを入れてるの?」
 そしたら、奥さんは周りを見渡して「内緒よ」と言って鞄を開けてくれた。
 膨れた鞄の中からは、ランニングシューズが顔を出した。白地に眩しく光る蛍光オレンジのライン。私は生まれて初めてそれを見た。奥さんは鞄を漁ると、他にもシューズとお揃いの色をした薄手のウエアを自慢げに取り出して、呆気にとられる私の体に押し当てて微笑んだ。
「あなたもやってみない?」

 家に帰ると、だれもいなかった。子供たちはまだ学校で、パパが帰るまでにはずいぶん時間があった。夕飯の支度の時間にも、余裕がある。窓の外はよく晴れていて、庭の洗濯物が気持ち良さそうに揺られて、私はいつの間にか鼻歌を歌っていた。パパの書斎に忍びこみ、パソコンを立ち上げると、奥さんから教えてもらったウェブサイトのアドレスを打ち込んだ。
 パスコードを入力すると、画面にはシューズやウエア、帽子、ポーチ、サングラス、スティック型の栄養剤、特殊な日焼け止めなど、市販されていないランニング用品がずらりと並ぶ。
 それから一時間たっぷり悩んだすえ、私はようやく心を決めた。灰色の地にピンクのラインの入ったシューズ。一目見た瞬間に、これだって思ったの。

 *
 目撃証言:配達員
「箱の大きさはどのくらいだったかな、たぶんこのくらい(両手を三十センチほど広げる)でした。あのときの奥さん、嬉しそうでしたね。いつも慌ただしくサインされるんですけど、あのときだけはいつもより笑顔で、やさしく見送ってくださいました。だから少し印象に残っているんです」
 *

 空が明るくなりだす頃、私はこっそり家を出た。家の裏道から坂道を登って、川沿いの隣町まで続く一本道に立つ。それから、だれもいないのを確認して、シューズの紐を固く結び直した。
 まず、右足でゆっくり地面を蹴ってみる。
 たん。
 次に左足。たん。右足。たん。左足。たん。
 少しずつ加速させて体を前に進めていく。
 たん、たん、たん。
 腕も振ってみる。体中についた肉が揺れる。
 十回も繰り返すと息があがって、全身から汗が吹き出した。まずは最初の橋まで、着いたら次の橋まで。それを繰り返すうちに、私の頭の中はどんどん空っぽになっていった。

 春の風が耳の奥でこだまして、草花は瑞々しくなびいてる。野良猫たちも楽しそうに歌って、川がメロディをととのえてくれる。今だけはだれの声も届かないし、なにを考えることもない。
 あぁ、素敵だわ。なんて心地良いの。
 私は重たい頭を振り払うように、腕をおおきく振り、白い靄に包まれる道を走っていく。

 隣町の近くの五本目の橋まで来たところで、私は一旦足を止める。後ろを振り返ると、私たちの町がずっと遠くに見える。普段はスーパーと学校くらいしか行かない私が、こんな場所に一人でいるなんて。
 でも、もうこれ以上は進めない。
 私は先に続く道に背を向けて、逆向きに走り始める。家に近づくにつれて、家族のむくんだ顔と朝食の準備が頭をよぎり、足取りは急に重くなった。

 帰りがけの橋で、私は一人の制服姿の少女を見つけた。ご近所さんや、学校のPTAの人たちに走っている姿を見つかったらまずい。私は慌ててどこかに隠れようとした。でも、少女は恐がることも、驚くこともなく、こちらをじっと見つめてる。私はおそるおそる少女とすれ違うと、その見覚えのある姿に驚いた。華奢な手足。はっきりとした目鼻立ち。長い睫毛。私はすぐに振り返ったけど、少女はもういなかった。
 でもたしかに、少女はかつての私だった。

 *
 秘密のラジオ番組
<全国のランナーのみなさん、こんにちは。マラソン大会まであと二ヶ月を切りましたね。最近、新しいランナーも増えてきたようなので、今回は基礎のお話をしようと思います。まずは靴のチェックをしましょう。靴紐は上の穴まで通して二重に結びましたか? ここでつまずくとあとで台無しですよ。さあ、靴をしっかり合わせたら、さっそく足上げをやりましょう。いっちに、いっちに、そうです。なるべく膝を高くあげてくださいね。では腕も加えてみましょう。はい、いっちに、いっちに、いっちに。いいですね。じゃあ、いよいよ走り出します。深呼吸をして、もう一度膝上げをしましょう、そしたらリズムに乗って進みますよ。はい、いっちに、いっちに。地面を足で蹴ってくださいね。上にジャンプするのではなくて、前に進むんですよ。歩幅を大きくして、足の脛の筋肉を意識してください。さあ、では続けていっちに、いっちに。いっちに。さんし。そうそう、その調子!>

 柔らかいキッチンマットの上で、私はスリッパを履いたまま膝上げをする。パパはテレビの野球中継に夢中で、子供たちは携帯電話とにらめっこをしている。右、左、右。ラジオのイヤホンから流れるリズムに合わせて、私はステップを踏み続けた。
 右、左、右!
 はい、いっちに、いっちに!

 *
 目撃証言:娘
「ママ? 家に時々いなくて困ったことはあるわ。学校から帰ったらおやつがないんだもん。そういえば、最後にママと話したことってなんだったかな。あんまり覚えてないわ。あ、ちょっと待て、このボス倒しちゃったら思い出してあげてもいいから(再びコントローラーを連打する)」
 *

 走り始めてしばらく経つと、川沿いは早朝と夕暮れ時に多くのランナーで賑わっていることがわかった。中学生や高校生の若いランナーや、走ることに夢中になりすぎて解雇されたサラリーマン、そして私と同じ歳くらいの主婦、姿勢の良いお年寄りまで。近所のスーパーや郵便局で顔なじみの人もたくさん見かけた。彼らは沿道を行きかう人々の視線を気にすることなく、堂々と、華麗に走っていく。
 タイミングが良ければ、同じ学校のPTAの奥さんにも時々会えた。その日も奥さんは私のフォームをチェックしてくれ、私は奥さんに秘密のラジオで覚えた靴紐のほどけない結び方を教えてあげた。
「ねぇ、あなたにも見えたでしょう」
 奥さんは足もとを見下ろして、微笑みを浮かべた。
「え?」
「私ね、子供の頃に猫を飼っていたの。あの頃まるで姉妹みたいに仲良しだったあの子が、隣で一緒に走ってくれるのよ」
 奥さんは最後に「走るって、とても幸福なことね」と小声で呟くと、ペースをあげて走り出した。
 周りを見渡すと、他のランナーたちも奥さんと同じように、走りながら楽しげに笑い、また物憂げに目を伏せて涙を流している。中には、だれかを抱きしめるみたいに両手を広げたり、殴るように手をぶんぶん振り回したりする人もいて、それはまるで以前にテレビで見た光景と同じだった。私たちはすれ違うたびに目配せし合うけれど、決してお互いのランを邪魔しなかった。

 二つ目の橋を走り過ぎるとき、今度はお揃いの赤いユニフォーム姿の少女たちが目についた。部員たちの手にはバトミントンのラケットとシャトルが握られている。その中には、少女の私がいた。少女はみんなに声を張り上げてアドバイスし、そして部員のどんなに速いスマッシュでも的確に打ち返す。私はもっと近くで見たくてランナーの列から離れようとしたけど、目を離した隙に少女たちはいなくなってしまった。
 あの頃の私は、今よりずっと輝いていた。

 私はその後も、毎日早朝と夕方に家をこっそり出て、庭の使っていない鉢植えの中に隠したスニーカーを履き、川沿いの道を走り続けた。
 私は走るたびに、少女の私と会うことができた。少女は一人でいるときもあったし、バトミントン部の部員や、たくさんの友達といるときもあった。少女はいつも、とても幸せそうに見えた。私は少女を見ている間だけ、家事の失敗も、パパのいびきも、子供たちのわがままな口調も、なにもかも忘れることができた。
 それでも、食事の支度の時間には家に帰らなくちゃならなくて、私は五本目の橋まで来ると折り返し、いつまでも隣の町との境目を越えられないでいた。

 *
 目撃証言:高校時代のバトミントン部員
「彼女は足の遅い選手だった。だから試合にはいつも出られなかった。動きが遅すぎるのよ。ペアで組んでも役立たずだし。一人で素振りの練習なんかしてると、よくみんなで大声で笑ってやったわ」
 *

 その朝、少女は川沿いのベンチに腰掛けて私を待ちかまえていた。少女は私を見つけるなり、おもむろに駆け寄ってくる。私が慌てて逃げようとすると、右腕を無理やりつかんで、私の顔を覗きこんだ。
「あなたは私なんでしょう」
「え? どうして?」
 私は思わず裏返り声で聞き返した。
「顔を見ればわかるよ。それより、未来の私はどんな感じなの?」
「む、息子と娘がいるわ。旦那と四人で暮らしてるの」
 私の言葉に、少女は目を輝かせた。
「へえ。旦那さんはどんな人? やっぱり背が高くて優しいの? 子供もきっと可愛くて、素直な良い子なんでしょう」
 少女のまっすぐな瞳から、私は思わず視線をそらした。
「そうだ、あなた仕事はなにをやったの? スチュワーデスはその体型じゃ無理そうだから、ファッション雑誌の編集者とか? それとも英語の成績が良かったから教師にでもなった? 留学はどこにいった?」
「それは・・・また今度話しましょう」
「ふーん。あなた今、幸せなんでしょう?」
 少女は納得いかなそうに首をかしげ、私は遠慮がちに頷いた。
「じゃあ、毎日走るのはなぜ? 太ったから?」
 私はその質問にも答えなかった。
「少しは教えてくれたっていいのに」
と、少女はつまらなそうに顔をしかめ、私の腕を離すと、濃い霧に包まれる道の先へと消えていった。

 家に着くと、廊下には三人分の泥だらけの靴下とシャツが脱ぎ捨てられていた。学校帰りの息子と娘は、台所の戸棚から漁ったスナック菓子やチョコレートを、リビングでそれぞれ横に広げている。
「そろそろ片付けたらどうかしら」
 私の溜息に、息子は背中を向けたまま「あんたの仕事だろ」と言い返した。娘は返事もせず、チョコのついた指でゲームのコントローラーを押し続けていた。私は娘の指をきれいにしてあげて、靴下とシャツを拾い、リビングのカーペットにこぼれ落ちたお菓子の屑を掃除機で吸い始めた。
「ママ! ゲームの音が聞こえないよ!」
 娘が電源コードを引き抜いて、それからまたテレビの前に座りこんだ。私がしかたなく夕飯の準備に取りかかろうとエプロンを着ていると、今度はお風呂あがりのパパまでやって来て、バスタオルを腰に巻き付けたまま、なにかを探して苛々している。
「おい、爪切りをどこへやった」
 パパは戸棚の引き出しをあちこち開けて、中の物を乱雑に放り投げ始めた。
「それぐらい自分で探したらどうなの」
「なにを言ってるんだ?」
 パパは怪訝そうに眉をしかめ、私はその顔を見て、とうとう我慢ができなくなった。
「あなたも子供たちも、どうして私につらく当たるの。私がなにをしたって言うのよ。毎日あんたたちのご飯をつくって、服を洗濯して、掃除をして、ロボットか家政婦だとでも思ってるの? 馬鹿にしないでちょうだいよ!」
 私は強く言い放つと、エプロンも外さずに家を飛び出した。
「ママ、夕飯がまだだよ!」
 娘の甲高い声が聞こえて、玄関のドアは勢いよく閉まった。

 血だらけで真っ赤な猿みたいなあの子を見たとき、私の残りの人生から他の選択肢は消え去った。たとえ、もっと素晴らしい未来に出会えたとしても、私は全部あの子にあげようと思った。ろくでもない男と結婚した後悔なんて、一瞬で吹き飛んでしまったわ。あなたにおっぱいをあげて、お洋服をつくろって、ホットケーキをつくり続ける日々が、この世のなによりも幸福だと思えたの。ねえ、本当よ。嘘じゃないの。これのどこが恥じるべき人生だって言うの。なのに、どうして時々こんなに心がかき乱されて、だれかに首をしめられたみたいに息苦しくなるの?

 夜の川沿いを走っていたら、三本目の橋の上に制服姿の男女が見えた。よく目を凝らしてみると、二人は少女の私とあの人だった。私たちは向かいあって、照れくさそうにうつむいている。耳まで赤くした私と、ちょうど頭一つ分ほど背の高いあの人の姿。部活が終わった後、私たちは毎日みんなに内緒で、学校の裏門から家まで一緒に帰った。
 夏の匂いと騒がしい蝉の鳴き声。繋いでいる手の熱いぬくもり。私、あの人のすべてが好きだった。あの人もきっと私のすべてを受け入れて、心から愛してくれていた。二人は耳元で囁き合い、楽しげに笑い合っている。私は二人の姿を見るだけで、たちまち幸せな気持ちで満たされた。

 四本目の橋に差しかかる途中、後ろからPTAの奥さんが追いついてきた。
「こんなに遅い時間はめずらしいじゃない」
「ええ、ちょっと」
 私が軽く微笑むと、奥さんは不安気に私の顔を覗きこんだ。
「ねぇ、あなた大丈夫?」
「え? 私のフォーム、またおかしかったかしら」
 私の問いかけに、奥さんは戸惑いながら首を振った。
「そうじゃないの。だってあなた、昨日も一昨日も、毎日走ってるわよね。この二ヶ月ほどずっとじゃない。そろそろ少し休んだほうがいいわよ」
「どうして? だってすごく順調よ。体力がついて息切れもしないし、なにより家にいるより走ってるほうがずっと楽しいのよ」
「とにかく走りすぎちゃだめよ。そのうち、本当に足を止められなくなってしまうわ」
 奥さんはそれきり黙りこんでペースを落とし、私たちは次の橋の手前で別れた。
 夜が深まるにつれて空と川の境は見えなくなり、辺り一面は黒い海のようになった。木々や草花も暗闇に混ざって、いくら走っても前へ進んでいる気がしない。外灯がわずかに照らすもと、私はどこからか聞こえる少女のお喋り声と橋の数だけを頼りに、先の見えない一本道をひたすら走り続けた。

 *
 目撃証言:初恋の彼
「この写真の女性のこと? ああ、前に夢に出てきた人にそっくりだなぁ。彼女さ、俺のことみて、懐かしい、って言って泣きじゃくってんだよ。たしかに言われたら見覚えなくはないけど、だれだかはわからないな。もしかして同じ中学とか、高校の同級生だったのかなぁ」
 *

「僕の新しいシャツがないよ!」
「ママ、私の体操服はどこ? それに朝ご飯は? またシリアル?」
 朝から息子と娘が騒ぎ立てるのを横目に、私はランニングシューズを探していた。昨日もちゃんと鉢植えの裏に隠したはずなのに、いつの間にかなくなっていた。台所も、リビングも、ゴミ箱も、家中を探し回ってもどこにも見当たらない。とりあえず代わりに走れそうな靴がないか下駄箱を漁っていたら、後ろからパパの低い声がした。
「お前、最近隠れてなにをしてるんだね」
 皺だらけのシャツを着たパパが、私を冷たく睨みつけた。
「なにもしてないわ」
「しらばっくれるな。お前、家事もろくにせずに隠れてこんなことやってたんだろう!」
 パパは後ろに隠していた私のランニングシューズを出すと、怒りにまかせて下駄箱の上に叩きつけた。どうしてパパが持っているの。ちゃんと隠しておいたはずなのに。私が取り返そうと手を伸ばすと、パパはシューズで私の手を乱暴に払いのけた。
「私の大事なものを返してちょうだい!」
「だめだ。いいか、俺はあのときランナーは病気だと言っただろう。なのに、お前は人の金でこんなものを買いやがって。それより子供を少しはしつけたらどうだ!」
「なんなのよ、私は好きで専業主婦をしてるわけじゃないわ、そうよ、本当はねえ」
 私がそう言うと、パパは顔を真っ赤にして叫んだ。
「うるさいうるさい! お前にはこの人生しかないんだ、甘えたことを言うな。なにができるわけでもないくせに。俺と結婚しなかったら、お前は飯も食えてないんだぞ。ありがたく思え!」
 パパの吐き出すつばが顔に降りかかって、私は頭にきて立ち上がり、シューズに思い切り掴みかかる。その反動でパパの頬に腕がぶつかり、パパは大きな音を立てて廊下に仰向けに倒れこんだ。
「なんてことするんだ!」
 頬を押さえるパパと子供たちを置き去りにして、私はランニングシューズを手に玄関を飛び出した。
 世界一、いいえ宇宙一家族を愛しているのに、私の愛はどうしてこれっぽっちも伝わらないの。毎朝毎晩おいしいご飯を丹精こめてつくって、お昼にはおにぎりを握ってお弁当まで持たせる。白シャツだってぱりっと襟が立つくらいアイロンをかけておくし、体操服や制服が破れていたら針でつくろう。家中の部屋の隅にほこりの一つさえ落ちてないようにも、いつも気を配っているのに。ねえ、どうして伝わらないの?

 川沿いの道に着くと、私は息をつく間もなく走り出した。だれもいない白い靄に包まれた道を進み、一本目、二本目、三本目の橋をあっという間に駆け抜ける。ウォーミングアップを忘れたせいで、息切れして口の中が血の味がするけど、もう知ったこっちゃない。四本目の橋を通り過ぎて、五本目の端に差しかかる頃、少女は私に気づいて呼びかける。
「その調子よ!」
 私は少女の声に右手を振り、いつもの折り返し地点を越え、迷わず隣町へと足を踏み入れた。

 *
 目撃証言:旦那
「あいつは元々頭が少しおかしかった。だから俺はあのとき、俺たちには関係のないことだと言ったんだ。だろう。そしてこのありさまさ、すべてはあいつが悪いのさ」

 目撃証言:息子
「ママはたしかに少し様子がおかしかった。でも、ママは元々ちょっと変な性格だからそういうもんかと思ってた。僕も妹も、ママのことはあんまり覚えてないんだ。多分なくしものとか、文句とか、色々あったんだけど、その時ママがなんて返事をして、どんな顔をしてたかも覚えてない。だって、俺たちはいつも携帯やテレビに夢中で、ママの顔をちゃんと見るなんてしなかったから」
 *

 道沿いには、見覚えのある喉かな田舎町が見えた。古びた駅舎。通いつめた小学校と中学校、少し離れたところの高校。それに近所のスイミングプールに、高校のバトミントン部の練習で使った体育館。あの人と帰り道に一緒に寄ったケーキ屋さん。そして、先の紺色の瓦屋根は、紛れもない私の生まれ育った家だ。

 沿道から声がして振り向くと、少女をはじめ、バトミントン部の部員たち、初恋のあの人、両親や昔飼っていた犬まで、懐かしいみんながそこに集まっていた。みんなは手を振り、大声をあげて応援してくれる。
「ねぇ、今のあなたとっても素敵に見えるわ!」
 少女は嬉しそうに微笑んで、私は少女と目配せをした。
 私は沿道の声援を受けて、一気にペースアップする。ねぇ、頑張って走るから、もう少しだけ待ってちょうだい。もうちょっとで、そこに行けそうなのよ。声援が大きくなるにつれて、私の足はだんだん軽くなっていった。

 ひどく重たい夜が通り過ぎ、いつの間にか真っ白い光が降り注いでいた。ピストルの合図が鳴り、顔なじみのランナーたちが道に集結してくる。若い少年も、会社を解雇されたサラリーマンも、お年寄りも、生き生きとした表情で走り出す。
 私たちはお互いに顔を見合わせ、それぞれの目の前の景色にむかって、夢中で足を進めていく。私たちは、自分たちが見たい景色に、会いたい人達に、会いに行くために走り続けている。そう。走っている限り、私は少女の自分に、バトミントン部の部員たちに、初恋のあの人にも会える。その先にこそ、私がずっと望んできた、本当の未来が待っているのよ。
 右足! 左足! いっちに、いっちに!
 私は足を前へと進め、腕もおおきく振って、道を走っていく。さっきまで苦しかった息は急に楽になって、足の痛みもほとんど感じない。すると、次の一歩が空気を掴んで、左足がぐんと加速する。さらにもう一歩を踏み込むと、私はランナーたちの群衆から一人だけ浮き上がって、沿道からはひときわ大きな歓声が上がった。
「あなた、いってしまう気なの!」
 足下を見下ろすと、奥さんが叫んでいる姿が見えた。
「なに言ってるの、大丈夫よ。私、今ちっとも怖くないの。なにがあったって平気な気分なのよ!」
「ちがうわ、私注意したじゃないの。そこにいってはいけないの。お願いだから足を止めてよ。あなたの家族が見えないの?」
 奥さんと他のランナーたちが騒ぎ立て、私の浮いた足に一斉にしがみつく、私のランニングシューズが脱げかけて、体勢が危うく崩れかける。どうしてみんな止めてようとするの。私はいつも通り走っているだけなのよ。私は彼らの腕を振り払い、だれにも邪魔されないように、もっと高く、さらに高く一歩を踏みこみ、マンションの屋上の高さくらいまで駆け上がった。
「ママぁ!」
 その声に地上を見下ろすと、息子と娘が人混みをかき分けて、沿道から泣き叫んでる。二人に少し遅れ、血相を変えたパパもお腹を揺らして走ってくる。
「いかないでくれ、頼むよ。お前の代わりはどこにもいないんだ、世界でたった一人しかお前はいないんだ!」
 パパの似合わない言葉に私は思わずは涙ぐんで、思い切り大声で叫んだ。
「ねえ、みんな聞いてちょうだい。私はあなたたちのことを、心から愛してたわ!」

 固いシューズに足をすべらせたとき、私の人生はまるで変わってしまった。
 パパと子供たちと一緒に暮らした家がどんどん遠くなって、ついには見えなくなっていく。お気に入りのランニングシューズが、空を駈ける。私の生まれ育った町へとむかって、はるか上空を飛び、海を越えて、大陸をまたぎ、太陽の光の上を走ってく。
 私は最後にもう一度だけ振り返る。みんな、元気でね。あなたたちのことは忘れない。私のことも覚えていて。ママはみんなを愛してるわ! みんな、ばいばい!




 *
 目撃証言:ランナー仲間のMさん
「あの人行ってしまったのね。多くのランナーの中にはね、本当に時々いるのよ。みんなと走る道から飛び出して、軽々と宙を駆けていく。そしてずっと先まで行って、やっと気がつくのよね」
 *

(小学館「本の窓」3・4月合併号掲載)

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