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いじめを減らすために必要だと思うこと

理想論かもしれないけれど、「やっちゃいけないこと」を減らすことだと思う。

みんなの輪を乱しちゃ「いけない」から、和を乱す人はいじめられる。
人に迷惑をかけちゃ「いけない」から、人に迷惑をかける人はいじめられる。
友達に優しくなきゃ「いけない」から、優しくない人はいじめられる。
人より目立っちゃ「いけない」から、目立つ人はいじめられる。
空気を読まなきゃ「いけない」から、空気が読めない人はいじめられる。
多様性を認めなきゃ「いけない」から、差別する人はいじめられる。
人を傷つけちゃ「いけない」から、人を傷つけた人はいじめられる。
犯罪をしちゃ「いけない」から、犯罪をした人やその家族はいじめられる。
いじめをしちゃ「いけない」から、いじめをした人はいじめられる。

「やっちゃいけない」を「やっていい」にするわけではない。私にとって上記のことはやられたら困るし、傷つくし、不快なことだ。不快なことは不快と思う。それは自然なことだ。そこで、自分は不快に思う。でとどめておければいいんだと思う。

我慢するということじゃなくて、ただ、不快と感じる。不快と感じている自分を認める。不快と感じていいんだと自分で自分を味方できれば、他の人に「あいつ不快だよな」と確認する必要はなくなると思う。

そのことを自分から切り離して「やっちゃいけないこと」「やっていいこと」と決めてしまうから、やっちゃいけないことをする人を排除する方に行ってしまうんではないか。

法律によると、いじめの定義は、「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」だそうだ。「やっちゃいけないこと」で傷つかない人もいるし、「やっていいこと」で傷つく人もいる。

私が学生時代に働いてたバイト先の店長は、よく「死ね」とか「ブス」とかいう人だった。でもこの場から消えたいと思ったことはなかった。

20歳の頃、高校の友人たちと5人で旅行に行ったとき、私は何故かすごく緊張していた。何を喋っていいかわからず、みんなの後ろで目立たないようにしていた。ふと私の前にいた友人のひとりが振り向いて、「静かすぎる…」と言って、また前を向いてみんなと楽しそうに喋りだした。私は、消えたいと思った。

私が今まで苦しめられたのは、「ブス」とか「死ね」とかいう言葉よりも、そこにいちゃいけないと思わせる言葉だったなと思う。

煙草は人に害を及ぼすけど、タバコという植物に罪はない。少しの煙草が息抜きになる人もいる。

「やっちゃいけないこと」「言ってはいけないこと」を増やすことは、かえっていじめを増やしてしまうような気がする。