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洗脳というよりは、黒歴史

※これは、私個人の感想であって、洗脳について学んだわけでもなく、その被害を否定するものでもありません。

私が、創価学会で宗教の活動を一番頑張っていた頃、非常識なことを結構やってしまったなと思う。

・悩んでいる友達に宗教の話をして、一緒に幸せになろうと言ったり(相手を不幸と決めつけていた
・あったこともない人の家にアポ無しで何度も訪問したり(会員の方で訪問可になってる前提。ただしアポ無しは非常識だと思う
・とにかく出会う人には宗教の話をして、受け入れてくれた人に執着してしまったり

相手からしてみたら、迷惑だし、怖いし、嫌われて当然のことをしてきたと思う。

でも、それが宗教に洗脳されのめり込んでいたせいとは思えない。
なぜなら、全然活動をしていない今でも、そういうことはよくあるからだ。

・人を見下して、何かを教えてあげようとしたり(心の話であったり、生活の知恵。このnoteだってそうかもしれない
・弱い者いじめを見て怒りを感じたり(自分は弱いものの味方だと思ってる
・少しでも自分に共感してくれた人に、もっと近づきたいと執着したり(趣味やものごとの考え方など

そういうことは、活動を頑張る前も、そして今も、日々、繰り返している。危ない人物だと自分でも思う。

だから、どちらかというと、宗教に洗脳されていたというより、生きてる間更新し続ける恥、黒歴史の中の一部と言ったほうが、私自身には、あっているのではないかと思っている。もちろん、そんな言葉で責任を逃れようとしてるわけではない。迷惑をかけた事実は変わらない。

私がそういった行動をしてしまうのは、たいてい、自分の弱さから目をそらしているときだ。本当は、現実がうまく行かなくて、自信がなくて落ち込んでいるのに、それに向き合いたくないとき。何か正しいこと、人の役に立つことをすれば、自分の価値が上がるんじゃないかと現実逃避をしているときだと思う。

本来、宗教というのは、そういう弱い自分に気づき、弱い自分も認めていくことだと思う。今、創価学会で学んだことを振り返れば、確かにそういうことを言っている。自己否定が成仏を妨げると、確かに書いてある。

でも、自分の弱さを見るのはとても辛い。だから、その一番大事な内容を無視して、自分の弱さを見ずに、その他の活動をしてしまっていた。それはいわゆる勧誘だったり、献金だったり。その方が簡単だから。私はそれでいいんだと思いこんで、そして苦しくなってしまったんだと思う。

だから、宗教に利用されたというより、私が、宗教を自分の思い込みで曲解していたんだと思っている。同じ法を信仰していても、ちゃんとできる人もいれば、私のように曲解してしまう人もいるんじゃないかと思う。その曲解した人と曲解した人が出会えば、ますます苦しくなる。

「法に依って、人に依らざれ」という言葉がある。法を説く人の言葉を自分で選択して受け取るのはいいけど、その人自身を信じて、“その人の言うことは正しい”としちゃだめだよ、と言うことだと思っている。

ちゃんと信仰できてるような人だって間違えたことを言うこともあるし、曲解してしまってる人だって正しく法を説いてるときもある。だから、人についていくことよりも、自分がその人から何を学ぶかが大切なんだろう。