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洗脳と信頼について

宗教について向き合っているせいか、ここ数ヶ月ずっと「洗脳」という言葉について考えていた。今日なんとなく腑に落ちたので書きたいと思う。
※いつもながら個人的な考えなので、一般的な定義などとはズレています。

私は、「洗脳」とは「信頼」のことだと思う。
「洗脳した」は「信頼を得た」だし、
「洗脳された」は「信頼した」だ。
違うのは、「洗脳」には損得感情があることだと思う。

信頼したことについて、自分が損したと思えば、それは洗脳されていた、騙されていたということになる。損得に関わるのは、お金だけではなく、時間だったり、精神的なものだったり、人によって違ってくる。

どんなことでも、損をする(していた)という感情はとても辛い。

だから、損をしたという気持ちが強い人は、「信頼してたけど、自分の考え方が変わったから、やめる。」ではなく、「洗脳されていたのに気付いた、騙されていた。」と言うのだと思う。というか私ならそうなる。人のことはわからないけど。

これは、信頼を得ようとする側にも言えることで、例えば、宗教に入る人は、勧誘した人を信頼して入信する。勧誘する人が信頼を得ようとすることは悪いことじゃないけど、信頼を得ることで自分が得したいという思いがあれば、それは洗脳しようとしてることと同じなんだろう。

純粋に信頼を得たいなら、相手が反発してきたり疑問をぶつけてきたときに、ちゃんと話を聞く努力をすると思う。それを「あなたがわかってないだけ」と言ってしまうのは、やはり損得で考えてるからだと思う。信仰をするほうが得で、信仰をしないのは損だと心の何処かで思っているのではないだろうか。

また、同じ宗教団体に所属する人から疑問や批判を受けたときに「あなたの信仰が足りないだけ」などと言ってしまうのも、やはり損得感情から出る言葉だと思う。信仰心が強い方が得で、信仰心が弱い方が損ということだと思う。

本来、信仰というのは、そういう損得感情を乗り越えるものだ。

仏教では、命の平等を説いている。万人に仏性があり、どんなに人から粗末に扱われたとしても、いじめられたとしても、その人の価値は全く変わらないと教えている。

同じように、たとえ宗教団体に騙されているんだとしても、利用されているんだとしても、私の価値は全く変わらない。騙した人と私の価値は全く同じである。と思えば、なにもみじめに思う必要はない。

私は最近、洗脳が解けたと言う人や洗脳されてないと言う人に「あなたは洗脳されている」「騙されていることに気づいてない」「被害者だ」と言われて悔しかった。だって、「あなたには何か(情報や考え)が欠けていて、損をしている」と言われているのだ。下に見られてるのが悔しかった。

でも、よく考えたら私は何も損してない。と気づいたら悔しさはなくなった。そして、損することを恐れてる自分に気づかせてくれてありがたいと思った。私は何も欠けてないし、その人たちだって何も欠けていない。今も、過去も。どちらが優れているとか劣っているとかはないのだ。

もしかしたら負け惜しみなのかもしれないけど、こう思えたのも仏教のおかげだし、仏教を教えてくれたのは私が入っている宗教団体だ。

このさき、やめることもあるかもしれないし、その前に団体がなくなったりすることもあるかもしれないけど、私は今と変わらず、自分なりに信仰を続けるのだろうと思う。

日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」と、ブッダが法を説いた理由は、人の振る舞いを教えるためだと言われている。

私は、人の振る舞いというのは、笑顔でいるとか、穏やかであるとかではなく「人の話をちゃんと聞くこと」だと思う。

だから、色んな考えの人がいる団体の中は、今の私にとっては良い修行の場所だと思ってる。

修行の場所なんて書いたけど、苦しいけど我慢みたいな意味ではなく、結局は楽しいからいるだけなんですよね。色んな人の言動に反応して変わる自分の心に向き合うのが楽しいんだと思います。