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ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章の「本当」のテンポ(2)

前回は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章コーダのテンポ以外の、楽譜上の問題点を整理し、そもそもメトロノームによる速度表記とはどういうものなのかを、ベートーヴェンのアプローチによって確認し、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章コーダのテンポ問題の特異性を示した。

今回は、いよいよ、その問題そのものに迫っていこう。

■楽譜が出版される前の録音から推測する

これまで出版された、ショスタコーヴィチの交響曲第5番全ての版による、第4楽章コーダのテンポは、以下のようになる。

1939年版:♩=188
1947年版:♪=184
1956年版:♪=184
1961年版:♩=188
1980年版:♩=188

1939年版のメトロノーム表記(書き込みはラインスドルフ)
1947年版のメトロノーム表記

前回、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の作曲者自筆原稿は既に紛失しており、全ての原本となったのは、写譜師の書き写した原稿となる。

だから、最初はどうだったのか?を知る術はない。

では、それでお手上げか?

もちろん、そんなことはない。
絶対確実ではないが、ある程度は真実に迫ることは出来る。

その第1段階として、スコアが出版される前、つまりスコアが印刷される前と思われる演奏記録をみてみよう。

まずは世界初録音、初演から約4ヶ月後、初演者であるムラヴィンスキーがレニングラード・フィルを指揮したもの。
録音:1938年3月

次に、ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮して1939年にセッション録音したもの。

ストコフスキーが、印刷譜ではなくなぜ写譜師のコピー版で演奏したのか断定できるのかというと、初期のコピー版にしかない出版譜との違いが確認できるからだ。そのことについて話すと長くなるので、気になる人は次の動画で確認してもらいたい。

さて、双方のテンポについてだが、ムラヴィンスキーのテンポは概ね♩=103、ストコフスキーは概ね♩=138である。

♪=184(♩=92)と比べるとだいぶ速めだが、♩=188と比べれば非常に遅い。ムラヴィンスキーはもとより、ストコフスキーの♩=138でもかなりの遅さだ。

後年のストコフスキーの演奏は、♩=230くらいになっていて、♩=188を強調した格好になっている。

もともとストコフスキーのテンポは自由なので、彼の演奏を聴いて楽譜が云々というのは無理がある。ベートヴェンの話を蒸し返すわけではないが、ストコフスキーのテンポに関しては、楽譜の表記を遵守するより、そのテンポが指定された意図を読み取って強調する――つまり遅い速度ならより遅く、速い速度ならより速く――方向性が感じられるのだ。

だから、ストコフスキーの1939年の録音が♩=138程度の速度ということは、スコアの速度表記が♩=188になっていて遅くしたと考えるより、♪=184(♩=92)では遅すぎるので、「遅い速度」という枠の中で速めに設定して♩=138にした、と考えるほうが妥当に思える。♪=184(♩=92)より速めのテンポで演奏しているのはムラヴィンスキーも同じだ。

だから、ショスタコーヴィチの交響曲第5番のスコアが出版される前のストコフスキーの録音を聴く限りでは、少なくとも写譜師がショスタコーヴィチの手書き原稿からコピーした浄書版スコアのテンポ表示は、♪=184か、またはそれに相当するテンポ表記だったのではないか?と推測できるのだ。

ここで、「それに相当するテンポ表記」と曖昧な書き方をしたのには、理由がある。

実は、浄書版スコアのテンポ表示は、一部確定している。
「一部」というのは、ムラヴィンスキーが初演で使用し、その書き込みが印刷譜にも反映された浄書版スコアだ。

1990年代に音楽評論家がムラヴィンスキーの浄書版スコアを調べたら、♩=88と書かれていたというのだ。そして、その評論家の結論として、1939年版スコアが♩=188となったのは、この♩=88を188と誤植したのではないかということだった。

また、その状況証拠の一つとして、♩=188は、メトロノームにこの数字自体がないこと、そして、第4楽章冒頭とコーダ(終結部)のテンポが同じ♩=88であるのは、交響曲という音楽形式の性質、つまり「形式としての整合性・統一性」という観点と照らし合わせると、理に適っている。このことについての検証は、後述する。

しかし、メトロノームに数字がないからといって、そのテンポを指定したらいけないというルールはないし、交響曲の形式としての整合性・統一性という「形式感」は、テンポ云々とは関係なく、それは、調性的な意味合いである。

結局、この誤植論は、どこまでいっても水掛け論だろう。

さらに、もし、♩=88のテンポが正しいと仮定したとしても、ムラヴィンスキーの初録音を聴いて分かる通り、そのテンポでは演奏していない。初演者であり、演奏者として、ショスタコーヴィチともっとも近い位置にいた指揮者がだ。

モーツァルトやベートーヴェンなどの古い時代の作曲家の作品ならいざしらず、作曲家と同時代で、何度もいっしょにリハーサルを重ねた作曲家と指揮者の関係性の中にあっても、「守られないテンポ指定」に、何の意味があるというのだろう?

では、この節の最後に、1938年にモスクワ初演を務めたアレクサンドル・ガウク指揮ソヴィエト国立交響楽団の1957年のライヴ録音を紹介する。
ラストのテンポは、概ね♩=106である。
やはり、指示テンポは無視されている。


■追い詰められた作曲家のたったひとつの冴えたやりかた

ショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演が行われたのは、1937年11月。
このタイミングがどれほど重要だったかを解説する余裕はないが、1937年11月7日はロシア革命から丁度20年目。音楽はもちろん、映画や演劇、文学作品や美術など、当時のソ連芸術界を上げて革命20周年記念行事が多数行われていた月だった、と書くだけで十分だろう。

その前年初頭、ショスタコーヴィチは、1932年のオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》や、1935年のバレエ《明るい小川》が当局から次々糾弾され、作曲の仕事は激減。満を持して作曲に取り組んでいた交響曲第4番の、1936年末に予定されていた初演も当局の圧力によって無期限延期される。

また、1936年は第一次モスクワ裁判から始まるスターリンによる大粛清が本格化した年で、1937年6月には、ショスタコーヴィチと親交のあったトゥハチェフスキー陸軍元帥が処刑されている。

そういった、自身の仕事、自由な創作活動に対する弾圧といった不安な社会情勢の中、ショスタコーヴィチは家族(母、妻、1936年に誕生した娘)を守るためにも、どうしても作曲家としてどうしても返り咲く必要性に迫られていた。つまり、ショスタコーヴィチは追い詰められていたのだ。

その舞台として、革命20周年の記念行事ほどふさわしものはないだろう。

しかし、ショスタコーヴィチには、政府から革命20周年記念行事のための作品制作の正式な依頼は来ていなかった。

幸いにも、ショスタコーヴィチには、音楽院の学生時代から家族ぐるみの付き合いがあった、生涯で唯一無二の親友にして音楽学者、イワン・ソレルチンスキーがレニングラード・フィルの上級職員にいた。

交響曲第5番の完成時点では、もう、すでにオーケストラ年次予定は出ていたはずだったが、首席指揮者ではなく、1934年からレニングラード・フィルの客演指揮者として度々出演していた30代前半の若い指揮者、ムラヴィンスキー(当時は現・マリインスキー歌劇場の指揮者だった)が指揮をするということで、無理を通せたものと思われる。ショスタコーヴィチによるピアノでの試演を聴いたムラヴィンスキーも、「私がやります」と積極的だったらしい。

そうした追い詰められた状況で、ショスタコーヴィチは、新作交響曲で失敗することはできなかった。

■これが「今」の交響曲のトレンドや!

では、そういった「絶対に失敗できない」状況の中で、どのような手を打つのが得策だろう。

当然、万人にウケる楽曲で「どうや!」とアピールできればいいのだが、おいそれと万人ウケできる作品が書ければ、誰も苦労しない。

しかし、そのための“やり方”はある。

それは、今でも同じだが、自分がやりたいことはまず置いておいて、とりあえず流行に乗って、「俺ならここまで出来るんやで!」と自身の力を示すことだ。

では、1930年代中盤のソ連で、どういう作品が人気だったのかみてみよう。

*レフ・クニッペル:交響曲第4番《コムソモールの唄》

1933年から34年作曲。

当時のソ連芸術の指針として進められていた「社会主義リアリズム」の代表的作品と評価される交響曲。

*ヴィッサリオン・シェバリーン:交響曲第3番、第4番

双方とも1935年作曲。シェバリーンは、ショスタコーヴィチとも親交があり、モスクワ音楽院在学時代は、レニングラード音楽院のショスタコーヴィチよりも高く評価され、ショスタコーヴィチもライバルと思っていたらしい。
なお、ショスタコーヴィチの交響曲第5番初演のコンサートでは、シェバリーンのピアノ協奏曲が前プロとして演奏されている。
シェバリーンは、音楽院卒業後は、すぐさま母校の教授に就任、後に院長にまで務める。

*ガヴリール・ポポフ:交響曲第1番

1935年作曲。おそらく「革新的」な作品としては、成功を収めた最後の作品。ポポフは、1922年から27年、ショスタコーヴィチとほぼ同年代にレニングラード音楽院に在学しており、音楽院卒業時に作曲された室内交響曲はプロコフィエフにも気に入られ、その才能が認められていた。


*ラインホルト・グリエール:交響曲第3番《イリヤ・ムーロメッツ》

以上、1930年代中盤に作曲・初演された交響的作品の中から、現在復活されている作品をみてきたが、終盤で現れる壮大なコラールの大本は、グリエールの交響曲第3番のように思われる。

こういった作風を、ショスタコーヴィチが自分なりに解釈して、確実に「ウケる」方向性として具現化したのが、交響曲第5番の終楽章なのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、交響曲第5番の初演後、「フィナーレを長調のフォルテシモにしたのがよかったんだ」と発言したとされる。

■交響曲第5番終楽章終結部の元ネタはこれ?!

しかし、当時のショスタコーヴィチには、あるアイドル作曲家がいた。

おりしも、ショスタコーヴィチは、友人の音楽学者ソレルチンスキーから、ことあるごとに「これからクル作曲家はこれやで!」と押し付け勧められていた作曲家がいた。それが、マーラーである。
ちなみに、ショスタコーヴィチに名前のイニシャルが音にしたらDSCH(レ、ミ♭、ド、シ)になると教えたのもソレルチンスキーである。

その集大成として書かれた自信作が交響曲第4番(1935)であった。実際、交響曲第4番には、マーラーの交響曲からの引用と思しき箇所が随所にみられる。しかし、第4番はお蔵入り。交響曲第5番が、そのリベンジとしての意味合いがあったのは、想像に難くない。

また、ソレルチンスキーはある講演で、「(ショスタコーヴィチの)交響曲第5番は、第4番の残り物で書かれた」と発言しており、交響曲第5番にも、マーラーの影響があることが仄めかされている。

では、ショスタコーヴィチの交響曲第5番終楽章の終結部で、マーラーの影響があるとするなら、この交響曲しかない。

実は、それまでのオーケストラ作品で、ティンパニが分散和音をこのようなリズムで連打する楽曲は少ない。ティンパニといえば、小節の頭でポンと単音で叩くか、長い音符をトレモロで叩くかのいずれかだ。

しかも、音まで同じD(レ)-A(ラ)の繰り返しとなると、「これが元ネタじゃね?」と思われても仕方がない。

■再びテンポ問題~実はそんなに速くない

しかし、だからといって、テンポまで同じにしようとしたかまでは、言えないと思う。

実際、交響曲第5番の世界初演はムラヴィンスキーの指揮によって行われたのは間違いないし、楽譜上、終楽章終結部の楽譜上のテンポがどうあれ、この交響曲が初演で大成功を収め際の演奏速度は、♩=100程度だと思われる。

つまり、写譜師による浄書版スコアのテンポが♩=88と記されていたことが正しかったとしても、少なくとも、初演時には、ムラヴィンスキーとショスタコーヴィチとの間で、♩=100のテンポ設定で演奏するということが了解されていたことになるだろう。

これは憶測の域をでないが、ショスタコーヴィチが作曲時に♩=88と設定していたとしても、実際の演奏を聴いて、「♩=100くらいでもいいのか」と納得していた可能性が高い。

要するに、♩=88のテンポ設定よりも、1947年版で「正しい」とした♪=184(♩=92)のテンポ設定の方が近い、ということだ。

だが、そもそも、♩=188というテンポ設定は、無理があるのだろうか?

終楽章コーダのテンポが「速い、速すぎる!」と思っている人は、バーンスタインの指揮を聴いてそう思うのだろう。

しかしこの演奏、実は♩=188ではなく、概ね♩=220くらいのテンポなのだ。だから、「速すぎる」と感じるのは当たり前。実際、速すぎるのだから。

テンポ♩=188は、概ねこのくらいの速さ。

みなさんは、この演奏を聴いて「速すぎる」と思うだろうか?

いずれの演奏も、「マーラー指揮者」として指揮者の演奏だ(もちろんバーンスタインもだが)。

*楽譜書法上の問題
また、もし冒頭のテンポと合わせた♩=88が正しいとした場合、楽譜には便利な書き方がある。
TempoⅠ°(最初のテンポで、曲頭のテンポで)だ。

もし、ショスタコーヴィチが形式上の統一を意図して冒頭とコーダのテンポを合わせようとしたのであれば、TempoⅠ°、あるいはTempoⅠ°(♩=88)とした方が、その統一性がより明白になる。

ショスタコーヴィチがそうせずに、新たに速度表記を書いたということは、あまりその統一性には拘っていなかったのではないか?とも考えられるのだ。

■そもそも冒頭のテンポ指定がおかしい?

では逆に、冒頭のテンポを考えてみよう。

冒頭のテンポは、♩=88と指定されている。
しかし、同時に、Allegro non troppoという表示がある。

Allegro non troppoは、「やりすぎない程度に快速に」という意味。

「やりすぎない程度」と書かれているものの、Allegoroだ。
♩=88は、どう考えてもAllegroの範疇ではない。

第2楽章冒頭は、Allegretto(Allegroよりも遅く)とあるが、♩=138である。

用語的に、AllegrettoがAllegroよりも速い速度であるのはおかしいし、百歩譲って多少前後するとしても(第1楽章主部は第四楽章冒頭と同じAllegro non troppoだが♩=126とある)、♩=88と♩=138では違いすぎるのだ。

中には、♩=88を重視して、「冒頭部分は堂々と演奏するべきだ」という評論家もいるが、「堂々と」演奏したら、Allegroではなくなってしまう。

この画像はミトロプーロスのスコアへの書き込みだが、♩=88に丸印を付けていながら、Moderato(中庸のテンポで)と書き込んでいる。
ミトロプーロスだけでなく、冒頭部は速めに演奏する指揮者が多く、♩=88を遵守している指揮者なんてほとんどいない。
バーンスタインなんて、♩=88を♩=100に書き直しちゃってるし。

まさか、冒頭のテンポこそ誤植で、本来は♩=188・・・まさか、ねぇ・・・。

■最終結論?

それでは、いい加減、話をまとめていきたい。

まず、ショスタコーヴィチが交響曲第5番を作曲する際の、当時のソ連の交響曲のトレンドは、最後の部分を遅いテンポで堂々と終わらせることだった。

ショスタコーヴィチが終楽章コーダのティンパニの連打の元ネタにしたと思われるマーラーの交響曲第3番も、テンポは遅い。

そう考えると、いかにも♩=88というテンポが正しいように思わる。

しかし、少なくともムラヴィンスキーの初録音を聴く限りでは、ムラヴンスキーが使用していたという写譜コピーを見た音楽評論家が主張していたような、♩=88が正しいテンポだったとはどうしても思えない。

ショスタコーヴィチが「堂々とした」テンポを望んでいたのだとしたら、♩=103なんていうテンポで演奏するだろうか? なんとしても守ろうとするはずだ。冒頭部は、Allegro云々を無視して♩=88で堂々と演奏しているからだ。

そして、ショスタコーヴィチが交響曲第5番の初演後に言ったとされる言葉。

「フィナーレを長調のフォルテシモにしたのがよかったんだ」

“長調のフォルテシモ”。

この言葉からは、どうしても「♩=88のテンポの堂々とした感じ」は想像できない。

そう考えてくると、1947年版で示された♪=184(♩=92)の方が、♩=88よりも適切なように思える。まあ、どちらもあんまり変わらないけど。

では、♩=188はどうか。

もう、これはほとんど冗談としか思えない。

まず、♩=188がメトロノームにないこと。
もし、ショスタコーヴィチが速いテンポを想定していたのなら、♩=184でもよかったはずだ。どうせ、楽譜に書かれたテンポを厳密に守って演奏する指揮者なんていないからだ。現に、バーンスタインは♩=220、ストコフスキーは♩=240でやっている。

結局、一般のリスナーが思っているほど、演奏者(特に指揮者)は楽譜のテンポを厳密には守らない、ということだ。

だから、楽譜のテンポ指示は一つの指標としての意味しかない。

そう認識した上で、「この演奏者(指揮者)はどういうテンポで演奏しているか」を受け入れ、そのテンポで演奏されている意味を考えるということ。

その方が、「楽譜通り演奏しているか?」と考えるより、建設的であり、クリエイティヴな聴き方だと思う。

以上、この稿終わり。












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