見出し画像

TVアニメ『WHITE ALBUM』(第七頁)    ~演出解説・批評

今回は『WHITE ALBUM』第七頁(第7話)についてのお話です。

★1 「泣くこと」、あるいは「声の不在」

まず、アバンからいきなり見る者を惹きつけるのは、観月マナが夕食を自宅で、一人でとる場面です。彼女は何かに憤ったかのように、桶の中の寿司をゴミ箱へぶっきらぼうに全て捨てます。そして、見逃せないのは、次の彼女が律儀に寿司桶を水洗いするカットでしょう。

このカットの残酷さは、カメラがマナの背後から捉えているため、彼女の表情を確認できないばかりか、その身体が流れ落ちているはずの水道水を覆い隠していることです。流れ落ちる水道水の効果音だけが、映像に重なります。それはあたかも、「マナの見えない涙」であるかのように孤独に響きわたります。

続いて同じアバンの場面ですが、レコーディングを終えたらしき森川由綺は、響き渡る無言の拍手と緒方理奈の寡黙なピースサインに触発されたかのように、思わず「涙」を流してしまいます。

さらに物語の終幕まぎわ。夜も更けた誰もいない冬弥のアパートの部屋の前。「お兄ちゃん」と口を滑らす河島はるかまでもが、感極まって涙を流してしまいます。彼女の台詞からあきらかなのは、「冬弥がいない」という事実より、「冬弥との言葉のやりとり」の不在が、彼女の「涙」を誘発したかのように見えることであります。

しかるに、今回の挿話に見出される「泣く」という出来事は、きまって「声の不在」が惹き起こします。観月マナの場合など、執拗にインサートされる「文字だけのカット(母親の「ヴォイスオーバー」が重なる演出は断固として回避されます)」が「声の不在」をきわだたせているのではないでしょうか。

★2 「歌の欠如」、または二重の「黙説法」

さしあたりは、今回の挿話に限定されていますが、奇妙なことに、視聴者は「アイドルたちの歌」を聴くことができません。

森川由綺が歌う場面は、こともあろうに、レコーディング直後から描かれます。また神埼社長が率いる音楽事務所の作詞・作曲・演奏までこなしてしまう才女「まつやまめのんの歌」は、ラジオから歌が聞こえ始めるであろう直前に、どういうわけか観月マナが妨害いたしますよね。そして挿話の最後の場面、「緒方理奈の歌」は「画面分割」の技法とともに、「桁違い」という「浮き文字」を画面に残して、白画面に「フェードアウト」してしまいます。

シリーズ構成といういささか穿った見方をするなら、すべてが次回以降の「伏線」になっているように見えるのですが、ここではふたつの演出テクニックを指摘させていただきたい。

ひとつめは「黙説法」という技法です。すべての歌を視聴者は聴くことができないのですが、きまって歌に関する明確な「情報」が与えられます。由綺の場合は「相当に歌い込んだ出来映え」、めのんの場合は「素人じみた桜団との対比で本格派」、理奈の場合は「桁違い」という風に。ですから、言葉を換えるなら、「歌を直接的に描かず、間接的に描いている=黙説法」というわけです。

ふたつめは「メタ構造」です。端的に指摘するなら、視聴者はまぎれもなく「由綺≒平野綾」・「めのん≒?」・「理奈≒水樹奈々」の歌声をどこかで耳にしているはずです。いいかえると、「作品の題材(アイドルもの)」と「キャスティング(アイドル声優)」の的確さが「メタ構造」を発生させているということです。

とはいえ、「メタ構造」それ自体はどうでもよく、肝腎なことは、「メタ構造」の存在によって、「黙説法が二重に機能する」という巧妙さです。こうして焦らされることにより、視聴者はいかんともしがたく、「アイドルの歌声を聴いてみたい」という誘惑に駆られてしまうのです。

アニメにしろ映画にしろ、このようにして視聴者・観客の感情と欲望のコントロールこそ、「演出」の一つの本質となっています。

★3 「捨てること」、あるいは「室内空間の移動」現象

今回の挿話では、冒頭から一貫して何かが「捨てられること」、あるいはそのメタファー(映像作品では本質的にその両者は同質)に目を奪われます。

誰もいない自宅に帰ってきたマナは、高校の通学カバンをその場に置き(捨て)、ゴミ箱には「捨てられた」大量の寿司が描写されます。Aパートが始まりますと、冬弥のお父さんに挨拶する澤倉美咲が描かれますが、この場面では冬弥が父親からトイレットペーパーと雑誌を相次いで「投げ捨て」ます。また、デプス・ステージングによる「縦の構図」と、特権的な舞台装置である「階段」が、巧みに使用された観月家でのマナと冬弥のやりとりでは、マナがうっかり「由綺は・・・」と口を滑らし、問題用紙が彼女の手からひらりと「投げ捨てられます」。

喫茶店エコーズの場面では、「投げ捨てる」かのように、美咲はぴしっと千円札をカウンターに差し出し、その場を後にします。または、地下の隠し部屋の場面。「手芝居」が見る者を惹きつける会話が打ち切られた後、フロアに戻ってきた冬弥、緒方英二、理奈。だが、「垂直俯瞰(真上)」から描かれた冬弥の食べ残しのカレーは、時間に急かされている状況を考慮いたしますと、「置き捨てられる」ことが推測できるでしょう。緒方英二の自動車の中の場面では、抱腹絶倒の会話劇が展開されたあげく、冬弥は美咲との関係を説明することを「放棄(≒説明を捨てる)」します。

「捨てること」は、演出的には「憤り」や「あきらめ」の表現として使用されることが多いものです。けれども、わたしたちの批評的な関心は、そのような抽象表現ではありません。肝腎なことは、「捨てる」という出来事が、きまって「室内空間の移動」という出来事を、画面の連鎖的文脈に刻みつけることであります。

換言すれば、「捨てる」という振る舞いは、ある人物を「室内空間Aから室内空間Bへ移行させる」きっかけとして機能しているわけです。

★4 この嘘を肯定せよ

第一頁から『WHITE ALBUM』を視聴している視聴者には、この作品がシリーズの全体を通して、「赤と黒」という色彩の記号が画面に氾濫していることに気付かされます。

その前提の上で今回の挿話を視聴するとすれば、爆笑するしかない事態に直面することでしょう。

まず、『White Album』に於いて支配的な「赤と黒の色彩」が、あろうことか、藤井家の自家用車にまで及んでいる事実に、今回の挿話では不意打ちされるはずです。さらに、それだけではなく、嘘としか思えないデタラメさで、観月マナの部屋のラジオの基調色までが、「赤と黒」なのです。

「色彩の心理学」はさておき、制作者の意図をはるかに超えた「無意識」が、画面の連鎖に反映しています。これは、色彩設計にかぎらず、映像制作現場の不思議な偶然性です。どんなに優秀な演出家であっても、本人が自覚していない「癖」は、歴然として存在します。クリエーターの方ならご存知かもしれませんが、「困った時の十八番」は各々お持ちのことでしょう。特に締め切りをブッチしたが迫った時には、その「困った時の十八番」が炸裂します。

ですから、そういった偶然性を無視して、連続性をことさら強調するような解説や説明は、眉唾ものです。また、その是非は重要ではありません。この笑うしかないデタラメさ加減を画面の上で「肯定」するところから、「アニメーションを見る」という体験は始まるのではないか、ということです。とりわけ、実写のテレビドラマや映画と比較して、「テレビアニメは馬鹿馬鹿しいくらい楽天的なもの」ですから、この姿勢は擁護されねばならないでしょう。

★5 暴力の顕現、あるいはその失敗

今回の挿話では、誰もが指摘してやまぬ「暴力描写」に触れずにはおられません。

冬弥の実家の場面。美咲との儀式的な挨拶を終えた後、冬弥の父親はその場を立ち去ろうとします。そしてその直前に、「アフターサービス」と「セルフサービス」の違いを息子の冬弥に指摘され、寸止めではありますが、あからさまな「鉄拳」が父親の「POV(≒主観ショット)」で描写されます。

さらにテレビ局の場面。M3の神崎社長に挨拶を済ませた由綺ですが、その直後、人物の位置関係と尺を考慮すると、荒唐無稽としか思えないでたらめな暴力が、したたかに由綺を襲います。

そして物語の終盤。冬弥の部屋の前で演じられた、あまりにも生なましく悲痛な、升望さんの演技で見る者を絶句させた河島はるか。彼女は繁華街を彷徨するわけですが、ボコボコと街ゆく通行人と衝突し、あげく、観月マナとまでぶつかってしまいます。

このほかにも、無数に「自分で自分を痛めつける」という描写は存在いたします。たとえば、棒にぶら下がって筋トレに励む冬弥の父親を模倣するかのように、マナは冬弥からわたされた問題を解き終えた後、まったく同じ「伸び」という身振りを演じて見せるでしょう。

言葉にしてしまえば当然なのかもしれませんが、これらの暴力描写はすべて失敗します。どういうことかと言いますと、「視覚化(顕在化)した暴力」はことごとく受け流されてしまうのです。この問題を考えるのであれば、「ジャンルの制約」を無視することは出来ません。たとえば、「ロボットもの」アニメというジャンルでこれだけ頻繁に「暴力」が発動したら、経験的にですが、間違いなく連鎖的に暴力を生み出して、その結果、いわゆる「ケンカ」という出来事が物語にすがたをあらわすでしょう。けれども、本作にあってはそうでない。

「暴力の顕現」は、きまって「暴力をやり過ごす」という出来事を画面に呼び起こすのです。「暴力が暴力を惹き起こし、弁証法的にケンカが開始され、終結する」のであれば、これは古典的なアニメーションです。しかし、本作にあっては暴力が暴力を惹き起こし、その暴力が弁証法的に解消されるカタルシス(解放感)を徹底して斥けます。

この「アンチ・カタルシス」は暴力描写に限らず、本作のいたるところに見出され、固有の磁場をかたちづくっているのです。この「アンチ・カタルシス」が、アニメ史的な正当性を持っている点を見抜いて評価しないかぎり、「テレビアニメは子供のもの」であることを決してやめはしないでしょう。

★6 物語言説と物語内容

これは、この作品の本質を形作る構成の重要なモチーフの一つではありますが、『White Album』に於いて、「時間」は、特に重要なものです。

具体的に言えば、「物語言説と物語内容における時間の不一致」を演出技法的に利用している、ということです。ようするに、物語言説のレヴェルでは、作品がはじまって1月以上が経過しているものの、作品の中では1ヶ月どころか3週間も経過していないじゃないか(物語内容のレヴェル)ということです。

早い話が、長い時間をかけて、集中的に歴史的なある一時期、すなわち1986年11月という、実在した日付を描きたいということですね。これは技法としては膨大なパターンがアニメの歴史にございますから、それ自体では評価対象にはなりえません。

そこで、作品の画面外の事象、すなわち時代設定に目をむけて見ましょうか。

★7 「ホワイトアルバム」に秘められた野心

まず今回の挿話から判ることを考えてみます。みなさんもご存知のとおり、神崎社長が率いる「桜団」というアイドルユニットは、かなり戯画化された「お二ャン子クラブ」のパロディーにみえます。

観月家において、マナと冬弥の間でかわされるさり気のないアイドル談義は、皆さんも覚えていらっしゃいますよね。マナはキッパリと桜団を「素人の寄せ集め」と言い切って見せますし、それに対して緒方理奈やあるいは「まつやまめのん」、将来的な「森川由綺」さえも、古典的なアイドルとして「桜団」と対比されているようにみえるのではないでしょうか。

けれども、歴史的な事実にあっては、「古典的なアイドル像」が「素人の寄せ集め」に圧倒され、その下地を背景にして「アイドル声優」が、そしてそれに対応するかたちで『美少女戦士セーラームーン』(1992)以後、『THE IDOLM@STER』(2011~)シリーズを経て、今期の覇権アニメと噂される『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022)までで顕在化する、「マルチヒロイン型アニメーション」が「萌え=美少女アニメ」として、時代を席巻いたします。

ここで忘れてはならないのが、「おニャン子クラブ」の結成が1985年、すなわち、『White Album』の時代設定である1986年のわずか前年であったということです。何が言たいかというと、『White Album』におけるアイドルたちは、現在の「アイドル声優」たちが誕生するか否かという「歴史のクリティカル・ポイント」に位置している人物であるということです。

つまり、『White Album』に於いて、当時を代表するトップ声優(水樹奈々→平野綾→戸松遙)が、その「起源」をアニメ作品においてあらためて反復するという事態が担っている「テレビアニメーションの歴史に対する批評」性なのです。

さらに、1986年という西暦にこだわってみるならば、これは言うまでもなく、日本のNTTで「携帯電話」が誕生する、1987年の前年だということです。

『White Album』が、携帯電話のない時代の物語である、という公式アナウンスが繰り返しなされていたことを覚えているでしょうか?
そんな宣伝文句は、テレビアニメーションとはほとんど関係のない資質の持ち主が考えるものですが、『White Album』にあって、いかにも狡猾だと見る者を驚かせるのは、自動車に付属している「車載電話」の存在です。

若いアニメ・ファンの方には、実感として印象派薄いと思いますが、「携帯電話」という小道具がテレビアニメーションのみならず、あらゆる物語・芸術に強制した変質は、誰も否定できないでしょう。間違いなく、「携帯電話」という小道具が、あからさまにテレビアニメーションにおける「映像言語」を変容させたことは、否定できません。

嘘だと思うなら、令和版『うる星☆やつら』第2話を再度ご覧ください。

そのような歴史性に目配せするかのように、1986年という、あまりにもしたたか過ぎる時代設定のもと、いわゆる一般家庭における「固定電話」や「(文章の)書き置き」文化を、「携帯電話」文化へと架橋するために実在した「車載電話」が、この作品において、無視し得ない機能ぶりで画面を動揺させるとき、見る者は「ノスタルジー」とは無縁なかたちで、思いがけず「感動」の一語をつぶやかざるをえないのであります(固定電話━車載電話…→携帯電話)。

★9 時代考証的リアリズムと批評的リアリズム

TVアニメ版『エヴァンゲリオン』シリーズや、『異世界おじさん』に関してさえも、必ずしも否定派ではございません。ただ、それらの作品が目配せした「時代設定」や「世界観」とは全く異質の批評性が、『White Album』には確かに宿っているようにみえるのです。

それは「眉毛の太さや髪の毛の色といった時代考証的なリアリズム」の尺度では、けっして批評することのできない、「アニメーション」に固有の貴重さではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?