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ゆずについて

2022年の夏、僕は4つ上の姉に連れられて『ゆず』のライブを観に行った。タイトルは『YUZU Arena Tour 2022 SEES -ALWAYS with you-』
おととし(2021)と去年(2022)に、彼らは『PEOPLE』と『SEES』という2枚の連作のアルバムを発表し、それにまつわるリリースツアーという形で行ったライブだ。 まず結論から言うと、このライブがものすごく良かった。 
あれから一年以上過ぎ、普段から熱心に彼らの活動を追ってるわけでもない僕が、いまだに反芻し感激をしているという始末なのだけど、そこに至る明確な理由や経緯があるので、その想いを今のうちに文章にしておこうと思った。
だいぶ長いです。

(※実はこのテキストはライブの終わった3ヶ月後くらいに書き出したのだけど、最後まで完成しないまま放置してしまっており、一年以上ぶりに腰を上げ、大幅に加筆修正をしようやく完成に至った。)

 僕とゆずとの出会いは1998年までさかのぼる。 16歳、高校一年生だった僕は音楽に興味津々で、CDショップや書店に週3.4ペースで通い、リリースされたCD・新譜情報のチェック、テレビやラジオの歌番組や雑誌や新聞、フリーペーパー、友達の口コミ、映画のエンドロールに出てくるミュージシャンの名前などに至るまでひたすらチェックしていたのだった。

そんな時期に、ゆずは『夏色』(名曲)でデビューし、すぐさまブレイクした彼らの事はリアルタイムで認知し、興味をもった。とはいえ、ほかに好きなバンドや歌手は山のように居た事もあり、当時はCDを買ったりライブに行くとまではいかず、レンタルしたものをMDに入れて聴く、くらいの距離感だった。

北川悠仁の作る曲の方が僕には刺さる事が多く、『夏色』はもちろん、『いつか』『贈る詩』『悲しみの傘』なんかが好きだった。
それらのポップで明るい曲が収録された『ゆず一家』、『ゆずえん』というアルバムで聴衆の心を掴んだ彼らだったが、そのあとは『心のままに』『飛べない鳥』『嗚呼、青春の日々』といったそれまでと毛色の変わったシングルの発表を続けた。

歌詞や曲調において、明らかに以前のイメージとは異なるダークでヘヴィーな表現をするようになり、世の中への抵抗、ファンへの挑発をするような面を見せ始め、そのあたりで僕の中でのゆずの見方が少しずつ変わっていった。明るいだけではないゆずの多面性を知り、そこに興味を持った形だ。その3作のシングルが収録された2000年リリースの『トビラ』というアルバムを聴いたことで、僕にとってゆずは【数あるJ-POP】から、完全に【聴くべき音楽】へと変化した。

ゆずは、今でこそJ-POPど真ん中で紅白の常連グループでもあるけれど、僕がハマった当時はMステはじめ地上波音楽番組に出ることは決して多くなく、ライブを中心にした妙にマニアックな活動スタイルが基本だった。それが僕には当時流行っていたHi-STANDARDあたりを中心にするインディーズバンドブームとも重なって見えて、ポップス畑の中にいるはずのゆずがそうしたスタンスを貫いている点がとても異質なものとして映ってもいて、そこがまたかっこいいなと思っていた。

それから2002年に『ユズモア』というアルバムがリリースされ、僕にとって初めてお金を出して買ったゆずのアルバムとなった。このアルバムは、当時まだ世の中へ認知されはじめたくらいの頃の村上隆とのコラボレーション作でもあり、限定盤は絵本仕様のめちゃくちゃかっこいいパッケージで、それがまたお気に入りだった。

ユズモア限定盤パッケージ


楽曲で言えば『アゲイン2』『3カウント』といったシングルを中心に、ポップなゆずへと回帰した作品だったが、ヘヴィーな音像の前作を経て、よりリッチで緻密な音へと変化しており、明らかに過去のゆずとは違う進化、成長したものになっていた。そこにまた僕は痺れた。

僕はドラえもんオタクでもあるのだけど、のちに「また逢える日まで」という楽曲でドラえもんの映画主題歌を担い、そのアートワークで再び村上隆とのコラボを果たした。ゆず×ドラえもん×村上隆が交わった時は、個人的な伏線回収を果たした気になり、「俺は間違っていなかった!」と感じて嬉しかったことも、個人的な記憶や体験として強くしていると今になって思う。

また逢える日まで 裏ジャケ


ライブに行ってみたいと思い始めたのもその頃からだったけど、タイミングが合わず、初めてのゆずのライブは次作の『すみれ』というアルバムのリリースツアーまでおあずけとなった。 その間に、ゆずの曲はただ聴くだけでは収まらず、「自分でも演奏してみたい」などと思うようになり、初めてギターを買うきっかけにもなった。彼らのみならず色んな曲を練習して、ある程度弾けるようになったと思うけど、歌いながら演奏するいわゆる『弾き語り』が結局出来なくて、適当なところでギターは挫折した。

次作『すみれ』はしっかり予約して、楽しみに待っていたのだが、アルバムの出来がそこまで僕の好みじゃなかったことと、2003年にはさいたまスーパーアリーナにて初めてのライブをようやく観られた事、他に聴くべき音楽や観るべき映画がたくさんあった事など、色々な事を理由にゆずへの情熱は少しづつ落ち着いていく。その頃の僕はレディオヘッドをはじめUKのバンドを掘っていたり、パンクロックやクラブミュージックに傾倒し始めていたので、ある意味当然ではあった。

また、ゆずは2003年に紅白歌合戦に初めて出演し、音楽番組に出演する頻度も少しづつ上がっていった。それまではプロデューサーの寺岡呼人と密に音楽を作っていたのだが、『桜木町』というシングルで初めて外部のアレンジャーを迎えて制作をする事となった。のちの代表作となる『栄光の架橋』もこのタイミングでのリリースであり、オリンピックという大型タイアップでお茶の間の認知も獲得。「みんなのゆず」になりはじめていったのもこの頃だった。そのあたりで「もう俺が聴くものじゃないだろう」という思いも強くなっていき、次作『1〜ONE』を契機にゆずを追っかける事は無くなった。

僕は実家を出て一人暮らしを始め、付き合う人も環境も変わり、それでもあらゆる音楽を聴き漁る日々は続いた。

そこから時は流れ2018年春。姉から突然ゆずのライブに行かないかという誘いを受けた。いつの間にか姉がゆずのファンになっており、ライブに通うようになっていたのであった。その日は、行く予定の人が行けなくなってしまいチケットを余らせているので、どうかという事だった。
『BIG YELL』というアルバムの全国ツアーのうちの1本で、2004年と同じく会場はさいたまスーパーアリーナ。であったけど、僕は当然アルバムを聴いていないし、さして興味もなかったが、昔のよしみみたいな気持ちで、実に14年ぶりにゆずのライブを観る事に決めたのだった。
結論から言うと、この日のライブがめちゃくちゃにすごく、最高に良かった。
なにしろセットが豪華で派手。
アルバム『BIG YELL』は、帆船をアートワークに使用しており、ツアーのセットも大きな船をモチーフにしたものになっていた。ステージ一杯に広がったセットのその物理的なデカさにまずは開演前から目を奪われてしまった訳だが、ライブが始まるとそのセットの中にゆずの2人やバンドメンバーはもちろん、ダンスなどをするパフォーマーが何人も配置されのびのびと動き回っており、それはそれは賑やかなステージだった。

船室を模したクソデカセット
可動式スクリーンが降りてきたり、映像面でも余念のない演出
レーザーも降る
ライブの後半、船のセットがくっついて、船首に変化した。これにはぶったまげた
船上で歌う2人がかっこよかった


グッズのフラッグを使った観客参加型の演出をはじめ、最初から最後までファンサービスみたいなステージは、自分をかっこ良く見せようとするのではなく、いかに客を楽しませるかを最優先に考えてライブが作られていたように思えて、それまで観てきたどのライブとも違う凄みがありそのストイックさに目から鱗が何枚も落ちた。
アリーナクラスのミュージシャンならではの地方都市も取り込んだスケールのでかいツアーだった事も、そのショックに拍車をかけた。あの馬鹿でかいセットを、全国に持ち運んで同じ規模のライブをあちこちで繰り広げている事を思うと、気が遠くなった。

そのライブで何より胸に迫ったのは、『夏色』をはじめ『境界線』『月曜日の週末』など、僕が好きだった頃の曲を、現役でバリバリ演奏していたこと。客も古い曲/新しい曲も同じように楽しんでいた事に僕はたいそう感激してしまった。ライブのMCで、年齢層別に客に手を挙げさせるくだりがあったのだけど、10代から80代まで、本当に幅広いファンが手を挙げており、僕が離れてるうちに本当に懐の深いミュージシャンに変化したのだなということを実感する。
14年という月日で、趣味や価値観も相当変わったはずの僕でさえも再び受け入れてくれて、それどころか改めて好きにさえなってしまった、その事がそれを証明していたと思う。

そして2022年。冒頭に戻る。
相変わらず派手なセットが目を見張る。

夏色演奏中


この日のライブは2枚のアルバムのリリースツアーであると同時に、デビュー25周年記念も兼ねていたらしく、北川悠仁はライブの途中のMCでこんな事を言っていた。「僕たちは25年間、一度も休む事なく続けてきました。色んな事があったけれど、今このステージに立ててるのは聴いてくれるみなさんのおかげです」細かいニュアンスはともかく、こんな感じ。

僕もものづくりの端くれとして感じる事、それはとにかく活動を続ける事の難しさだ。 人間である以上、興味の移り変わりや環境の変化、モチベーションの維持、金銭的な事情、技術力の壁、、活動が続けられない理由なんていくらでも出てくる。
まして、ゆずの場合はユニットという活動形態である以上、どちらか一人で好き勝手やればいいわけでは当然なく、一定の足並みを揃える必要もあるだろう。
ここで僕の話をすると、イラストレーター志望として活動をスタートしたはいいものの、なかなかうまくいかずに試行錯誤したり、数年間も活動を休んでいた時期もあった。やめてしまおうと思った事も何度もあった。
創作活動というのは、作品の良し悪しや売れ行き以前に、続けるというそれ自体がとんでもなく高いハードルだというのが僕の経験を通して思うことだ。
技術力が高いからといって、売れたからといって、それが続けられるかというとまた別の問題であり、志半ばでやめてしまう作家が山ほどいる一方で、鳴かず飛ばずでも何故だか作るのをやめない作家もいる。

ゆずの場合は、デビューしてすぐにブレイクし数年後にはアリーナツアーまで出来るほどの人気を獲得していたので、本当にずっと第一線で活躍している事になる。 色んなベテランバンドなどを見ていても、活動休止期間があったり、途中でソロ活動期間を挟んだり、裏方にまわったり、文筆業や俳優業など音楽以外の活動にチャレンジしたり、活動が停滞する時期がある事はほとんど既定路線と言っていいかもしれない。しかし、ゆずはそうはならずに文字通り25年間休まず続けてきたわけで、のしかかる重圧や期待と常に隣り合わせだったに違いない。 規模は月とすっぽんだけれど、自分自身の活動とも少し重ねながらそんな事も考えた。

そんなMCを終えた後に、「栄光の架橋」を演奏した事に僕はすっかりグッときてしまった。

誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった

と北川悠二は歌った。
こんなに説得力のある歌とパフォーマンスがあるだろうか。ドンドン彼らに感情移入していく自分がいた。
この日の「栄光の架橋」では、「ゴールテープ」という新曲のワンフレーズがミックスされていたのだが、この曲のみならず、「NATSUMONOGATARI」という新曲では「桜木町」をサンプリングしていたり、古い曲と現在の曲を繋げるようなアプローチが多くあった。 「桜木町」も「栄光の架橋」も、僕がゆずを聴かなくなったくらいの時期の曲であり、その頃の曲と現在がここで繋がったのも、なんの因果なのか分からないが、僕個人にとっては感性をグッと刺激させるポイントだった。

そしてライブの最後に披露したのは、ツアータイトルにもなっている「ALWAYS with you 」という曲。 『SEES』に収録されている「ALWAYS」という新曲と、2012年にリリースした「with you」という10年前の曲の2つをこれまたミックスした曲だ。

ALWAYS この街も僕らも変わり続ける

という出だしで始まると一転、「with you」のパートになだれ込み 
きっといつか 夢を掴むその日まで
信じてくれた君の為に 何度でも 何度でも
一人じゃない 心の中 どんな時も with you

と歌い上げる。

語義的に言えば“変わり続ける“と"with you"というフレーズを合わせるのは、見方によっては矛盾した組み合わせと言えるかもしれないけれど、25年の年月を積み重ねた今、むしろ説得力と安心感でもって観客に伝わっていたと思う。ただ"with you"とだけ歌う事もきっと出来たのだろうけど、あえてそこに「僕らは変わり続ける」と入れたのは、彼らなりの誠意なのだろう。

街も環境も人も自分も、とにかく変わり続けない事には成長もない。場合によっては変化する事で離れていってしまう人もいるかもしれないけど、そのかわりに新たに出会う人や環境が必ずあって、恐れずにずっと挑戦して変化を続けているうちに、離れていった人と新たな気持ちでまた再会できるかもしれない。僕が14年を経てゆずと再会できたように。

ライブからもう一年以上過ぎたけど、大きなものを受け取った経験はたしかに僕の中に生きてる。これからもものづくりだけに関わらず色んな場面においても、変化を恐れずに吸収し、発散していこうと思う。

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