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熱伝導性の高い世界に生きる

 宿が再開して1ヶ月が経つ。夜の門司港に連なる明かりも、少しずつ彩度を取り戻してきた。予約カレンダーは決して安心して眺めることはできないけれど、ちょっと足を伸ばしてポルトを覗きに来てくれる人が増えて嬉しい。そういえばかつての夏は、山口でフェス、福岡でライブがあるたびに、会場付近で宿が取れず、門司港にまで人が押し寄せてくるような日もあった。そんな「やむをえず」門司港、という宿泊需要のおこぼれもめっきりなくなった今、「迷わず」門司港、「めがけて」ポルトに来ました、と選んでくださる人も多い。おかげさまで営業再開後からいままで、息つく間もなく楽しい日々だった。
 しかし、やっぱりシーズンともなると、飲食も観光も博多で、「ただ寝る」機能を求めてポルトに来る人も一定数居る。「中洲の屋台」「太宰府のスタバ」圧倒的なネームバリューにやさぐれてはいけない。「今夜は寝かせないぜ」の勢いで、中洲のホストよりキャバ嬢より魅力的なコンテンツをかざして巧みに誘いたいよね。そんなことを語らっていた学生時代は、ユニークなイベントで福岡の人をおびき寄せる仕組みを作ろうとか奮闘していた。でも、文字通りのパワープレーで私たち自身が消費されるような荒技が、自分にそぐわない気もしていて。やはり、「行ってよかった」「来てくれてよかった」のゲストとホスト双方の心地よさの上に、一夜の恋じゃ終わらない、末長い関係性を築いた方が時世には合ってるんじゃないかと思う。むしろそれこそが、今を追いかけるどころか時代の波から逃げ惑う私が、かろうじて資本主義の文脈に沿って提供できるものだとも考えられる。

 予約をいただく時点、もっというと「旅に出よう!」と決めた瞬間がその人にとって旅の始まりとすると、お客さんの予約からチェックイン、チェックアウト、次の旅程、旅のその先に続く日常のことを考えるのが私の日常だ。その行為自体はルーティーンだけれど、人の数だけ旅のスタイルがあって、日常の数があって、そのひとつひとつには規則性のかけらもない。即興劇みたいな毎日は、「じゃあ、また来週のこの日の夜にね!」時間だけてきとーに決めたら、あとは歌おうが踊ろうが、飲んでも弾いても、聴くも聴かないも勝手。パブでのウィークリーのセッションを思い出す。アイルランドのパブで目の前に広がっていた光景って、今考えるとノープランノーヒント、ハプンスタンスの真髄だった。どこへ行き着くでもなく、何を目指すでもなく。即興で奏でるパフォーマンスを、いつだって私が観客としていつも目の当たりにしていたいだけだ。

 宿泊営業がずっと暇だと、SNSの投稿に熱が注げた。特にインスタ。ポルトのインスタは私が投稿したいボルテージが高まったときに投稿しているんだけど、ふと投稿しようとした時、私はどこかの誰かに「絵はがき」を書いてるんじゃないか、という気がしてきた。これは、ある日突然SNSマーケの師範代みたいな人に首を突っ込まれたりするより前に公言しておきたいので二度言います。インスタは絵はがき。
差し出し相手は、エステの予定を入れるみたいな感覚で、月1で泊まってくださるご近所の方。
以前ポルトを利用して個展やイベントを開催してくださった方々。
フライヤーを交換したものの未だお会いしたことのない他のまちの宿のスタッフさん。私たちの投稿を目に留めてくれて、少しでも気分がすこやかになればそれでいいし、その人がまた、いとしい誰かにすこやかな気分をシェアできればもっといい。フォロワーの人数と、単なる「いいね」じゃない温かいハートの数を限りなく近づけたい。いくら私たちが心のままにシャッターを押したところで、それは他者から必要とされて初めてくっきり浮かび上がるもの。周囲の方のおかげで、ここにきてやっと、見せたい景色を現像できたように感じる。門司港やポルトで拾い集めた、両手で扱えるだけの喜びをリリースし続けたいから、この絵葉書にはいつも手を抜けない。

 良くも悪くも熱伝導のよいこの世界では、現場に立つものの熱量が相手にじかに伝わる。特にポルトは、チェックインの時は玄関で靴を脱いで奥へあがってもらうのが一番初めの所作となる。その時点で、カウンターを越えてフィルターをつき破って、相手がじかに迫り来ることをゆるしあわなくてはいけない。そうなると、面と向かって相手と向き合う以外の選択肢がない。当たり障りのない話をいつまでもふわふわトスを上げていても、「あゝん?」と来るものに片っ端から「やんのかこら」と返していても、いつまでも前に進まない。けれどしょせん一人では脆弱な私たちだからこそ、コミュニケーションからお互いの心臓を狙って、輪郭を縁取っていくべきではないだろうか。面倒なことも後悔することも自分の未熟さに居たたまれなくなることもあるけれど、相手とまっすぐに向き合う練習をしているのだと思うようにしている。

 これは余談だけれど、大学生の時に「日本のトゥーマッチサービスとおもてなしの歴史」について調べようとしたことがあった。「おもてなし」の語源をググると、本来「表(おもて)も裏もなし」の付き合いをすること、だとすぐに出てきたのでなんかその事実で全てを言い当てられた気がして調べるのをやめた。プライバシーとかコンプライアンスとかのワードが飛びかい、徹底的にプライベートの保たれた空間、距離の離れた接客を強いられる今、本来の意味の「おもてなし」より私たちは随分遠いところに行ってしまった気がする。言葉の意味なんて、時代がいとも簡単にすり替えていくけど、私はありとあらゆる場面で世間とはいつも一線を画していたい。



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