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出典の書き方に迷うという話

最近、工藤吉生さんの日記に、ずっと出典の話が出てくる。やはり歌人の伊舎堂仁さんが、工藤さんの運営する短歌botに、非難するでも同調するでもなくだまって出典を付けていくということをやっていて、工藤さんも自分で出典を示そうとしているということらしい。

出典ってどう書いたらいいんでしょうね。

馬場あき子(さん)の短歌で『馬場あき子全歌集』が伊舎堂さんにリプライされたが、工藤さんは出典は歌集名を入れたいという。入れてなかっただけで入れ始めたら厳密にやりたい性格というか、厳密にやるタイプだから作業が大変に思えていたのかもしれない。

出典の書き方については、自分はこれが正解という考えを持てずにいる。
全歌集や個人選集より元の歌集がいいという感覚は、なんとなくわかる。あの曲は何に入っているんだっけ、という話のときに、ベストアルバムを挙げられても困るだろう。

一方で、そんなに全部原典に当たってられないよとも思う。好きな一首が出てきた本のほかに、もう一冊原典を確認しろと言われたら大変だ。

現に自分が読んでいるのが『鑑賞・現代短歌四 佐藤佐太郎』であるときに、『星宿』と書いたほうがいいのかどうか。見ていない本を出典に書くのは嘘のような気もする。ふたつの本で表記が違うかもしれない。

もう一つ思うのは、「初出」にこだわることも難しいってこと。多くの短歌は結社誌や総合誌が初出だろう。初出を書いてあるアンソロジーもあるが、なんというか、そういうことをみんなが大切にしなきゃいけないというほどのことではなさそうに思う。

ひとつ思いついたのは、その作者が公式に許可している本なら出典になるという考え方。二回目であっても三回目であっても、その作者の口から出たならいいという発想だ。雑誌でなく歌集でよいと思う人は、多少この考え方を採用しているということだろう。

その考え方なら、全集や個人選集、また、著者や遺族に許可を得たアンソロジーも出典にできる。
一方で、工藤さんのbotや、いわゆる「引用」は、出典に出来ない。
うん、妥当そうな気はする。

「線引きが妥当そうから正しい」という考え方には、結論のために理屈を捏造している感じもある。というわけで、「公式に許可している本なら出典にしてOK」という理屈を思いついたものの、自信は全然ない。

まあ、迷いながらやっていく。

少し話がずれるが、たとえばページ数を出典にふくむかどうかは、場合によりけりでいいんじゃないかと思う。絶対に必要なもの以外は、現実に役立つかどうかで決めればいい。

この点は、最近自分が所属する短歌同人えいしょでも話題になり、同人誌内の出典記載にはページ数も載せることとしたが、自分はあえて「どちらでもいい」という意見を言った。

ページ数、たとえば500ページの大著ならそのページを探すのが大変だから書いてあげると親切だし、一方10ページのコピー本で書いても無意味だろう。
親切のつもりで書いていたら、文庫化された本ではページ数が違うということもあるはずだ。

ページ数を書くのは、推測では、レポートの書き方の作法がそのまま使われているんじゃないかと思う。それは大学生や研究者のマナーであるから、歌人のマナーとみなすには慎重でありたい。

ノックは三回たたけというマナーを提唱しないようにしたい。

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