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松村正直『短歌は記憶する』感想メモ


「サブカルチャーと時代精神」

大辻隆弘の短歌や、藤原龍一郎の短歌の元ネタを探ることで、その短歌にあらわれる精神性を分析している。
サブカルチャー用語のインパクトではなく、サブカルチャー用語の時代性に着目するという見方は、作る際の方法としても参考になる気がする。

「ゴルフの歌の百年」


ゴルフの短歌の移り変わりを見ることで、ゴルフの定着がわかる。
紹介されているうちでは、土岐善麿の短歌が、ゴルフという新しいものへの興奮を伝えて面白かった。


「短歌に見る家屋の変遷」


短歌において、家屋や家財道具が変化してきたことを語る。家のありかたは、家族のありかたとも関連して、それぞれの歌人の境涯も反映する。
正岡子規、中村憲吉、山崎方代、小池光の家と短歌が紹介されている。

「仁丹のある風景」


医薬部外品である仁丹が詠まれた短歌を紹介している。仁丹は広告戦略を重視したため、風景として広告を詠んだ短歌が多い。もはや馴染みのうすくなった仁丹が、短歌のなかである時代の痕跡を残している。
ただ、正直仁丹に興味がないので、この章は特に感慨を持たなかった。

「軍馬という兵器」


戦争において、馬を題材にした短歌を紹介している。戦争詠において、馬は戦争の道具なのであるが、しかし思想から離れた一頭の動物でもある。その点で戦争詠を現実に引き戻すような作用を持っており、短歌を豊かにしているのではないかと感じられた。

「歌枕としてのヒロシマ」


いわゆる原爆の土地としての広島について考察する文章。合同歌集『広島』に「広島」という言葉があまり出てこないという指摘はなるほどと思わされる。当事者にとってそこが広島なのは当然だからである。そして、「広島という語を用いるのは、直接経験した者ではなく、外から見た者なのである」という指摘は鋭い。
また、9.11の同時多発テロ事件以降、反米の報復感情がヒロシマに託してうたわれていることも指摘する。
しかし、「『ヒロシマ』がイメージとして肥大化する時、それは現実の広島とは乖離してしまう危険を伴う」という。また、ヒロシマは戦争における被害的な側面であることから、「ヒロシマを語っている限り、私達は決して傷つくことがない。そうした居心地の良さにも十分に注意する必要があるだろう」。
広島であれヒロシマであれ今後も歌枕であり続けるという指摘はおそらく当たるだろうから、私達はそこで流されることに注意しなくてはならない。

「靖国神社が抱えるもの」


靖国神社についての紋切り型の短歌に疑問を呈し、靖国が「近代的」な神社であることに着目する。靖国神社を詠んだすぐれた短歌を多く紹介している。
ただ、この文章自体は、紋切り型の全否定や全肯定の危うさからは逃れているし、紹介された短歌もそういうものではあるが、全否定や全肯定をしないことが紋切り型になっているような印象を受けた。靖国神社の細部を上手に詠んで事足れり、でいいのだろうか。短歌として優れたものを作ればそれでいいのだろうか。著者の言う「読み手が問題をより深く考えるきっかけとなるような作品を生み出す」という話は、作者や読者にとって結論がはっきりしている問題についても、より深く考えようと薦めることで、立場を曖昧にする効果がある。「考える」という行為は、いつまでも考えるためではなく、考察を終わらせるために行うものだ。

「八月十五日の謎」


1945年8月15日、いわゆる終戦記念日について、私達がイメージしている要素、たとえば暑い日、玉音放送といった状況がある。しかしそのイメージが単一化することで見えなくなっているものがあるのではないかと疑問を呈し、詳細を掘り下げていく。
降伏文書への調印は9月2日なのだが、実は当時は短歌作品にうたわれていたという話は、興味深い。
玉音放送については、天皇の語りのみならずアナウンサーによる解説があったことを指摘するなど、私達がイメージする代表的な物事の「周辺」があったこと、そしてそれはある程度意外なものでもあることを教えてくれる。

「樺太の見た夢」


いま、さっと検索したところでは、樺太は日本の国土に一時組み込まれたが、現在はロシアが実効支配しており、どの地域がどちらの国に属するかについては、両国に見解の相違がある。このように両国の力関係に翻弄される土地では、土地を歌った短歌にも変化が見て取れる。その変化を教えてくれる文章。

「サンシャインビルの光と影」


サンシャインビルのある池袋には、かつて「巣鴨プリズン」、すなわち戦犯を収容したことで有名な、刑務所があった。その受刑者の短歌などを紹介している。

「長い時を越えて―清原日出夫論」


安保闘争をうたった歌人として有名な、清原日出夫について、その三十年以上後に出た第二歌集も含めて考察している。第一歌集『流氷の季』には、安保闘争を〈表〉に、歌人の故郷道東の風景が〈裏〉にあるという指摘にはうなずかされた。

「二つの顔を持つ男―石田比呂志論」


無頼派、飲酒、孤独というキーワードで語られる歌人・石田比呂志について、自己戯画化という側面を見て取るとともに、「生身」と「演技者」の両方が同居していることを指摘する。個人的に好きな歌人なので嬉しかった。

「短歌史へのまなざし―三枝昂之論」


評論と作品の両方に力を入れる歌人・三枝昂之について論じている。
ふかぶかと風吹きつのる夜の谿にまよいてなくなわが相聞歌/三枝昂之(『水の覇権』) といういい短歌を知れた。しかし、短歌史を重視する三枝のやり方は、私自身とは相容れないものであると思った。著者は三枝の態度に肯定的だが、その作風の変化を「青年から中年への変化として片付けられるものなのだろうか」という言葉は、反語であるが、やはりそういう側面があるのではないかと感じた。

「母恋いの歌―永田和宏論」


永田和宏が、実母を幼くして亡くしている点、またそののちの新しい母との隔たりに着目し、さまざまな「母」のすがたを永田の短歌に見て取る。
一人の歌人についての切り口として良いものなのだろうとは感じたが、この紹介のなかには興味深い短歌が見当たらない。とはいえ、著者は短歌結社「塔」の編集長だった時期があり、永田和宏は「塔」の以前の主宰であるから、結社内の、永田和宏を深く読みたいという歌人には有意義な文章であるに違いない。


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