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『現代短歌大系12 現代評論集』を読む⑲ 「政治的不安と短歌」清原日出夫

 私はこれまで、岸上大作と清原日出夫については、主に関川夏央『現代短歌そのこころみ』で知っており、その印象から、岸上がわりと単純な学生運動の人物であり、清原がもう少し冷静な人物と思っていた。しかしどうやら「政治的不安と短歌」というこの文章を読む限りでは、岸上と清原はいずれも当時の学生運動の思想にどっぷりつかっており、文章が短い分だけ、むしろ清原のほうが単純に見えるほどである。

 清原は、まず当時の政治状況について書く。反米、反安保を語りつつ、岸内閣を「ファシズム独裁」と呼ぶのであるが、私が気になったのは、その当時の青年らしい整頓の仕方よりも、次の段落にうつるときの物言いだ。「だがこのようなことは、日本人なら赤子でも知っていることである」。

 日本人なら赤子でも知っていることなど、あるだろうか。赤子という誇張もいやなものだが、日本人の大人なら知っていること、というのがあるだろうか。清原は、ひとつの内閣をファシズムと独断する思想を、このような誇張した言い回しで使い、自分の短歌論に導こうとする。強引すぎる。

 この文章には見るべきものがないわけではなく、黒住嘉輝という人物の文章を引いて、短歌の瑣末主義とモダニズムに類似点を見つけ出している。
 寺山修司や春日井健について、「同じ世代に私も属していながら、その上彼らの非常に豊かな才能を認めるにもかかわらず、その作品の中に読んでいてこちらから身を引きたくなるような気障なものに幾度もぶつかった」という。
 すなわち、身辺雑事の瑣末主義も、寺山や春日井の気障な部分も、現実逃避という点で変わりないと清原は言ったのだ。

 だが、この文章におけるわずかな見どころ、上記の指摘も、すぐに色あせてしまう。彼が反対に良い例として挙げる短歌は、「安保改定をうたう」(『短歌』五月号と書かれている)という特集に寄せられたものだ。

 作者名を省かれたその引用は、ここで孫引きすることはできないが、率直に言おう。清原が挙げた八首の短歌は、結局、その背景にある政治的思想が正しいと感じる人にしか、良さを納得できないたぐいのものだ。清原はその内容を信じた。だから、寺山や春日井の気障よりも「安保改定をうたう」に与した。だが、のちの世の私達はある程度知っている。社会主義諸国の内部では、隠された悲惨な抑圧があった。そしていまも、香港やチベットにおいて政治的抑圧が苛烈になっている。

 清原は短歌の変化は人間の変化を反映するものだと信じている節があるが、これもいささか怪しい。つまり社会思想と人間の内面が連動しているべきだという意見なので、あるべき人間の姿をあらかじめ規定してしまっているきらいがある。

①政治的思想に応じて人間は変化して短歌に反映されるべきだ
②その政治的思想は(明示されていないが)社会主義だ

 私がこの紹介文の前半で語ったのは清原の②の側面であったが、①が単独でも、極端になれば危うい思想だ。
 自らの政治思想がまったく表現に現れない人間というのも信用ならないであろう。だが、寺山や春日井の「気障」をとがめる清原は、政治的以外の思想も人間には宿るということを忘れているのではないか。

 実際の人間は、政治的なことを考えつつも、毎日どうやって何を食うか、意中の女性と付き合えるか、夕焼けが美しいか、などといったことによってグラグラしている。人間たちの持つ、ある一面が寺山や春日井で、ある一面が清原だった。そして、寺山や春日井は美しい秀歌を残し、清原もまた学生運動についての秀歌を残した。しかし、清原がたたえた「安保改定をうたう」の短歌は、人の心を打てるものではなかった。

 清原日出夫の文章「政治的不安と短歌」は、ごくわずかに彼のセンスが見えるものの、全体的には誤った内容であった。

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