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『現代短歌大系12 現代評論集』を読む⑱ 「ぼくらの戦争体験」岸上大作


 岸上大作「ぼくらの戦争体験」は、表題に反して、太平洋戦争などのことを語る文章ではない。そうではなく、彼が参加している時代の左翼活動を「戦争」とみなして、自分たちはまさに戦争をしているのだと語る。

 岸上は、現代短歌において評論が不振であるという話から始める。ここで岸上がいうのは実作者による評論の話である。
 岸上の文章の前半は、論理的ではないが彼の気持ちを伝えてくるものである。「短歌は抒情詩である」と言うのだが、その言い方の慎重さが、言いにくかった状況を物語っている。

「〈短歌は抒情詩である〉と、いまの御時世にヌケヌケと言いうる者は余程の時代錯誤感に陥っているのだときめつけられてしまうような気がする。軽蔑される前に、〈気の毒な奴だ〉とあわれまれるのかも知れない」

 さらには、「大方の憫笑と軽蔑を招く」「はずかしさのあまりに冷汗をかきながら」などと回りくどく予防線を張る。『現代短歌大系』の2ページほどを費やして書かれた文章は、この、いろいろ予防線を張った上での「抒情詩」の宣言である。しかも、抒情詩の抒情について、岸上は辞書の定義を述べ、自分もその意味で言うと語る。つまり、新たな抒情詩を宣言したわけではなく、単に抒情詩であると言うだけのことが、彼にとっては勇気がいることだったのだ。

 文章の中盤では、自分たちの世代は「戦争を体験した」という主張がなされる。これは社会主義運動のことを指している。私達はここに、社会主義運動が、反米感情、敗戦への反発心に基づいていた側面を見て取ることができよう。

 岸上の文章の後半は、当時の社会主義運動の図式にからめとられた青年の、狭窄な視野が見て取れる。「日本が資本主義体制にあるかぎり反体制のぼくら」「プロレタリアートの社会主義革命によって獲得させるべき論理」……。日本の当時のありようを、「日本資本主義が、その発展の一段階である帝国主義段階において、市場分割をめぐってアメリカ帝国主義との対立を招き……」と歴史の段階を踏んだ結果であると岸上は見て取っている。

 これは、ヘーゲルからマルクスへと受け継がれる、歴史がある特定の方向に動くという誤った考え方なのだが、少し留保をつけるならば、当時から観た過去の分析としては正しい側面もあるのかも知れず、ただ岸上自身はその先の未来に社会主義革命を見据えていたことを考えれば、一人の青年がこのような信念を持っているのは、滑稽と言うよりも悲劇的である。

 私はことさらに岸上をあげつらう気持ちにはなれない。やはり、私は後の時代に生きていて、ソ連が崩壊したことも、社会主義諸国の内部で苛烈な粛清があり、思想統制がなされたことも知っているから、誤りを指摘できるのだ。

 ここからは岸上の文章の当否というよりは、私の純粋な感想になる。
 岸上は短歌を抒情詩と規定しつつ、一方で社会詠として自分の短歌が批判されることを意識しつつ、次のように語る。

「短歌における論理は、感性の高度化された形態として把握しなければならない」
「すぐれた作品は、時間および空間を超越する。しかし、超越と遊離とが異なることをぼくらが知っていれば、時間および空間の超越はまさに時間および空間への執着により獲得されるのであり、時間および空間への執着なくして、その超越はありえない」

 言葉が固くて難しいが、「短歌のなかの理屈は、単なる理屈ではなく、自分が感じたことの表現として成り立っていなければならない」「すぐれた作品として時代を超えるためには、むしろ現代に焦点を当てていなければならない」といったところであろうか。

 私が思うに、この岸上の社会詠論は、ごく普通である。「うーん、こういう話よく聞くなあ!」と思う。
 普通だということは妥当だということでもある。岸上は妥当なのである。

 だが岸上の政治的活動は性急で、寺山修司に冷たくあしらわれたと言われる。やがて岸上は自死して政治の行く末を知らないまま故人となる。左翼運動のその後を知らないまま消える。

 妥当な社会詠論と性急すぎる政治活動が結びつき、しかも岸上の短歌は結局いまも愛誦される。そして岸上の社会詠論はいまも普通である。ならば、すぐれた短歌を生むかどうかは、実は社会的な正しさとは関係なく、真剣に誤るかどうかだけにかかっているのではないか。そんな疑いを私は抱く。ならば、すぐれた社会詠とされている作品は、社会を誤った方向にみちびくものかもしれない。

 これは、まあ、微妙な話ではある。やはり短歌には短歌の技術のすぐれたものがある。一方で、読者の社会観とかけ離れたものは称賛されにくいだろう。安保についていうならば、岸上のみならず歌壇は反安保的であっただろうから、安保法制を求める短歌は認められなかっただろう。

 実際、当時における新安保について、現代歌人協会と日本歌人クラブは「岸内閣退陣・国会即時解散」の声明を出した。岸上の文章はそう伝えている。

 岸上は責めまい。だが、現代に生きている歌人は、その後あきらかになった社会主義諸国の実態も、安保によってそこから日本が守られたことも、把握しているはずである。政治にはさまざまな正負の側面があるが、少なくとも社会主義諸国の側に与しようという考えは間違っていたのだ。
 現代歌人協会と日本歌人クラブは、謝罪声明を出すべきではないか。私達は誤っていました、安保法制は必要でした、岸内閣は正しい政策を行いました。
 それを言わないとしたら、歌壇はどの口で国家の責任を問えるだろう。
 そして、安保に賛同した社会詠を発掘し、その名誉を回復するべきではないだろうか。

 岸上は自らの参加した社会主義運動を「戦争」になぞらえた。だがその運動は誤っていた。
 現代に生き延びた歌人と歌人組織は、「戦争責任」を語るべきである。


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