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『現代短歌の鑑賞101』を読む 第一回 前川佐美雄

小高賢の編んだ詞華集、『現代短歌の鑑賞101』を読んでいこうと思う。前から順に読んでいく。

最初は、前川佐美雄。
いきなり勝手が違うのは、私は前川佐美雄が好きで、全集の短歌の巻を読み通したことがある。
なので、このアンソロジーで知るわけではない。

その作風の特徴は、大胆に常識を外したことを言うところにある。
私としては、裏側にニヒリズムが貼り付いているように感じることもある。

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし
いますぐに君はこの街に放火せよそのの何んとうつくしからむ
(『植物祭』)

秋晴れの街に行きたいのは、「行きたい」だけだし、「君はこの街に放火せよ」というが、そうされたら困るタイプの作者が前川佐美雄ではないだろうか。

思い切ったことを言う人ほど、細部に夢中になったときにいい短歌を発するというところもあり、前川佐美雄の短歌のうち、後半生に属するものにも言える。

金剛のみねよりおろす寒風さむかぜの或る夜はわれのたま吹きとほる(『金剛』)
机べに青蟷螂がひそと来て威儀正しをれど誰も気付かず(『鳥取抄』)

金剛のみねという、山の厳しい見た目を表す言い回し。青蟷螂が威儀を正している、誰もが見た情景のおかしみ。そういった細部がこれらをよい短歌にしているのである、が……。

本当は、私は前川佐美雄好きとして、「あの短歌が収録されていない」的な、勝手な嘆きを持っているのである。そこで、私の好きな一首を紹介しておきたい。

道道に宝石の眼がかくれゐて朝ゆふにわれの足きよくせり(『白鳳』)

道に宝石の眼が隠れていて、朝にも夕方にも自分の足を清潔にしてくれるというのである。
眼が足を清くするというのは、涙のようにも思えるし、宝石の眼が持つ特殊な眼力にも思えるが、眼が道にたくさんひそんでいるという怖い発想と、それが自分を清くするという奇妙な喜び。好きな一首である。

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