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『現代短歌大系12 現代評論集』を読む⑳ 「思想と表現の関連性 ――安保短歌をめぐって――」岩田正


 岩田正のこの文章について論評するのは難しい。内容が難しいからではない。この文章は、六名の歌人が、安保反対運動を詠んだ短歌について評しているだけだからである。岩田自身の政治観や短歌観がどうなのかということは明瞭ではない。

 坪野哲久、筑波杏明、篠弘、馬場あき子、岡井隆、岸上大作の六人の短歌をあげて、順に評していくというかたちである。

坪野哲久はその観念的な割り切り方が、参加者ではなく傍観者的であることが批判される。たしかに、短歌が図式的になっていると感じられた。

 筑波杏明の短歌は、弾圧される側ではなく、弾圧する側、警察官の立場から詠んだものである。

 その前提を飲み込んで読めば、すぐれた作品であると私は感じたが、岩田正は「自らの陣営に敵対する側を、最大限に評価し意義づけ価値づけることで、自らの恥部への鋭いメスを意識しようとする、この自虐には、ナルシシズムのもつ陶酔と甘さがある」と厳しい。

 これは厳しすぎると感じる。岩田の「意識しようとする」という言い回しは、本当に自然と意識されたのではなく、ナルシシズムによって無理に意識したかのような印象を与えるが、筑波は単に「そう思った」のではないか。

 篠弘の短歌については、「一応成功した」のように言われているが、私が読んだところでは引用された五首に面白いものはなく、もしかしたら、その当時の短歌の多くとは違っていたのかも知れないが、いまとなってはその差を読み取ることはできない。

 馬場あき子の短歌は、一首「腰ひくくわれらを狙う制服の背後ととのいゆく武装あり」というのが、見えているものの背後でととのう武装という観点が面白いと思ったが、その面白さは安保反対運動の政治性とあまり関係がない。岩田は「概括的にながれすぎるきらいがあって」と評している。

 岡井隆の短歌については、岩田の批評が鋭く発揮されている。「長袖流」「古風さ」「岡井の持前のふるさ」「小細工は通じない」「個人的な所作」。これらの言い回しは岡井の短歌をよくあらわしている。技巧的にうまく、観点がするどくとも、政治的対決においてはそれは小細工にすぎない。いま、振り返って岡井の巧みさを称賛する者は、よく考えねばならない。決断を避け、失敗を避け、小さな発見をうたった岡井は、政治的には時代の流れに乗りつつも芸術でお茶を濁したのではないか。

 岸上大作の短歌について、岩田は「特にきわだってすぐれていた」と言う。私もまた、そう感じる。そして、岸上の短歌は特に政治的に鋭いことを言っているものではなく、むしろ図式的である。

装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている/岸上大作

 これなど、踏まれた装甲車の側を何ら思いやってはおらず、自らの正義感に酔うおさなさが見て取れる。戦意高揚歌と似たようなものである。それでも岸上の視点に立ってその感動を共有してしまうのはなぜか。むしろここでは、短歌の芸がうすまって、ただ思いを述べるための器になっているということが、共感を呼ぶという気がする。「うまいことをいうなあ」「あたらしいことをやるなあ」と思われたら、政治詠は本気さを疑われてしまうのかも知れない。

一応、岩田正がこの六名を挙げたのは、批判対象にする程度にはいずれもすぐれているからだろう。ただ、率直に言って、筑波杏明と岸上大作以外の短歌は私の心を打たなかった。


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