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ない世界の渇望 ―黒瀬珂瀾『黒耀宮』を読む―

黒瀬珂瀾『黒耀宮』は、2003年に発行された、黒瀬珂瀾の第一歌集であるが、2021年に新装版が出された。
それを読んでの感想である。

同性愛的な美の世界を描いた作品が多く収録されているが、率直に言ってそれらの短歌には惹かれなかった。
よく出来ていると思うのだが、遠くで完結している世界だと感じた。

地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ
咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり
マラトンの勝利のごとく青年は倒る 与ふる物なき吾に

これらの短歌は美しいが、共感を覚えるには関わりがなさすぎた。

一方で、おそらく『黒耀宮』の代表歌とはみなされないであろう次の作品が気になった。

大衆に入りゆく覚悟にほはせて友は霜夜の麦酒をあふる
少女ふと薄き唇をわが耳に寄せて「大衆(マッス)は低能」と言ふ
合法の名のもと人の手を廻る悲しきものは口にせざりき

この三首は、取り立てて目立つ短歌ではない。
ただ、直感として、黒瀬珂瀾の物の見方に関係があるように思えたのだ。

一首目は、大衆のなかに混じる覚悟を持った友が、大衆的なビールをあおる。友はそうしているが、語り手がどうしているかは何も描かれない。大衆に入りゆく覚悟を匂わせられたのだから、まだ大衆ではない二人だったのだろう。

二首目も、大衆についての短歌である。注目したいのは「少女」である。同性愛的な題材の頻出する『黒耀宮』において、少女は自分と一体化するような恋愛対象ではないだろう。自分とは異なる者としての少女が、酷薄という言葉にも通じる薄い唇で、大衆を侮蔑する。ここでも語り手の態度は描かれず、必ずしも少女に共感していない。

三首目は少し趣が違う。おそらくはタバコだろうか、合法の名のもとに人が手にする薬物を、自分は口にしない。その認識は大衆的ではないと思える。なぜなら、タバコを好む人も嫌う人も、それが「合法の名のもと」にあることを悲しいと思って、口にするかどうかを選んだりはしないからである。タバコを口にしないという内容の短歌だが、タバコを口にする大衆ともタバコを口にしない大衆とも異なる。

大衆ではないが、反大衆的にもなれない作者の姿勢が見て取れる。

私が『黒耀宮』のなかで好きな短歌を挙げる。

違ふ世にあらば覇王となるはずの彼と僕とが観覧車にゐる
月を刺すビル群のはて名を持たぬ青年王の国ありといふ
わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を

このうち一首目と三首目は、ほかで引用されているのも見たことがあり、『黒耀宮』の代表的な短歌と思われる。

すでに評価されている短歌であるだろうが、私としては、ここに「美」以外の観点から感想を述べてみたい。

大衆ではない黒瀬珂瀾は、高踏的であること、つまり世俗を離れて気高くあることに価値を見出しているのだろうか。そうではないと思う。

違う世界、違う時代においては覇王になるという話は本当だろうか。私には疑わしく思われる。覇王になる者は現代でもひとかどの人物となるのではないか。空想の無根拠な感じに比べて、観覧車ののどかさは滑稽だ。

青年王の国ありといふ。この短歌は「青年王の国あり」で終わっていない。「といふ」と付け加える作者は、青年王の国があってほしいと望みつつも、その存在を信じてはいない。

わがために塔を、の短歌の省略された部分には、おそらく「くれたまえ」「建てたまえ」のような言葉があるだろう。「天を突く」は誇張表現だ。手に入らない過剰なものを望む心がここにある。

大衆にはならない黒瀬珂瀾は、しかし大衆を離れた高踏的な立場に満足できる作者でもなかった。現代にも、古代にも未来にもないであろう自分の理想世界を求め、だがその世界は手に入らないのである。

この話は、穂村弘が著書『短歌という爆弾』で「愛の希求の絶対性」と述べたものに、「希求の絶対性」の部分だけ似ている。

穂村は、「現実の恋人の優しい言葉や仕草によってたやすく解けてしまう」ような短歌を「信じることができない」と言った。現実に解決手段がありえないような愛への希求に、魅力を見出したのだ。

『黒耀宮』は、一般的な現実、大衆的な現実になじまない短歌の歌集であった。収録された短歌のうちには、大衆から離れた自分の世界を作り上げてみせる歌もあったが、しかし『黒耀宮』の最良の部分は、世界への絶対的な渇望にある。

「違ふ世」はない。
「青年王の国」もない。
それでも「天を突く塔」をくれたまえと叫ぶ。

黒瀬珂瀾『黒耀宮』にはそういう側面がある。

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