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助詞の省略について

助詞の省略について「筒の中光りたり」という竹取物語の文をもとに考えてみる。

「筒の中光りたり」では、「が」が省略されている。
現代文に直せば「筒の中が光っていた」となる。
しかし、これを「筒の中光っていた」と書けば不自然である。

現代文と古文では、古文のほうが自然に助詞を省略可能な場合がある。

さてしかし、これを私がだれか友達に話すように言葉にするならば、
「筒の中が光っとった!」
「筒の中光っとった!」
のどちらも可能である。むしろ後者のほうが自然だという人も多いだろう。

これは妙と言えば妙である。
なぜなら、古文は過去の書き言葉であるこれはもう遠い昔の言葉である。
現代文は現代の書き言葉であり、少し保守的である。
しゃべり言葉は一番現代らしいまさに今使っている言葉である。
ところが、助詞を省略できないのは「現代文」だけである。

古文 ○
現代の文章 ×
しゃべり言葉 ○

という、サンドイッチのような状況がある。

よく歌会などでは、一首への評として「助詞の省略が気になる」という声を聞く。そういう声を聞くからには実際その短歌は不自然な場合が多いのだが、いまのサンドイッチを踏まえると、現代語短歌の場合、直し方は二種類方向性があるはずだ。

1 省略した助詞を復活させる
2 全体をしゃべり言葉っぽくする

作歌がしゃべり言葉ベースの人と、文章ベースの人では、助詞の省略ハードルが違うという話でもある。

助詞の省略の話をもうひとつ。
助詞の省略がもたらす効果は、歌会などでは「助詞を定型の音数に合わせて省略したように思える」という不自然な部分が指摘されることが多いが、プラスの効果もあると思うのだ。

いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな  伊勢大輔

百人一首の短歌(和歌)である。「にほふ」は、いまでいう匂いがするということではなく、美しく咲き誇るという意味だ。美しく咲き誇るのはもちろん八重桜だ。

九重というのは皇居のある都を指す。むかしの奈良の都の八重桜が、現代の都でも咲き誇っていることよ、とでもいった現代語訳になるか。
いずれにせよ、現代語訳すると「八重桜"が"」と助詞を補うことになるだろう。

しかし、「八重桜が」と助詞を補ったとき、単に現代語化したからというだけでなく、元の一首の迫力が失われているように思うのだ。

その一つの理由は、元の短歌では、一見(ずっと見ても?)「八重桜」が助詞の省略なのか、名詞句で一度文章が切れているのか、わからない、わかりにくいからではないだろうか。

私個人は、この短歌から、言葉の流れについて、二重の印象を同時に受け取っていると思う。
ひとつは、文としての意味の連なりだ。
いにしえの奈良の都の八重桜がきょうの皇居にまた咲き誇る
と現代語化したときの意味の流れである。

もうひとつは、名詞句で一度切れる、決め台詞のような印象だ。
いにしえの奈良の都の八重桜~(ジャジャーン)きょうここのえににおいぬるかな~
という感じである。

助詞の省略はこの「決め台詞っぽさ」と「意味の連なり」を両方一気に打ち出せる。なので、現代語短歌の作者も、「助詞の省略はよくない」と安易に決めず、どうすれば効果的かつ自然に使えるか検討すると実りがあるのではないか。

以上、
・現代語において助詞の省略はしゃべり言葉のほうがハードルが低いこと
・助詞の省略には音数合わせ以外の効果がありうること

を書いた。

おそらくこの話を、理論的にか直感的にかはともかく把握している作者は、現代語短歌の世界にすでに結構いると思う。これを「もうとっくに古びた話なのか」ととらえる向きもあるかもしれないが、私は「つまり、やればできるんだな」とポジティブにとらえて、自分にとっての新たな可能性としたい。

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