『現代短歌の鑑賞101』を読む 第四回 坪野哲久
坪野哲久は好きな歌人である。しかし、「坪野哲久」という名前にも通じる、ストイックな印象があり、求道的なものを好む自分を、また危うくも思う。
坪野哲久の短歌は、文体はやや硬いように思うが、プロレタリア歌人と言いつつも内容は自然をうたったものも多い。そのせいか、透明な粉のように目に優しい感じを受ける。
私には、この古典調の短歌の意味はよくわからない。冬の星の青い光の下で、ひとり酒を飲んでいるということであろうが、「とがり青める」「いのちとげしめ」あたりは調べないとわからない。(調べない。)
ただなんとなく、シビアである、ストイックであるという印象のなかに、悲しい美しさを見て取る。
春の海の音が聞こえる。その音は荒ぶっており、丘を超える蝶のつばさはまだ強くはない。
これはもしかしたら、季節をうまく詠んだことで、価値を増していく短歌かもしれない。春の海は音を大きく立てており、蝶の羽ばたきは、夏ほど強くはない。ある特定の季節を指して明確な短歌である。
しかし坪野哲久の本当の一首は次の作品ではないかと私は思うのである。
自分の一生には殺人をすることも盗みをすることもなかった。それが憤怒のような悔いとなって襲ってくる。
相当変わったことを言っている。殺人や盗みという悪いことをしなかった、それが後悔となる。ここまでで十分変わっているのであるが、共感はできる。
そして、さらなる共感を呼ぶ「憤怒のごとしこの悔恨は」。わかるのだが、冷静に見ると変わった表現である。悔恨も憤怒も心情をあらわす言葉であるから、比喩として「憤怒のごとし」というのは何か変である。一生に殺人や盗みをしなかった自分に、自分の人生に怒りを覚えている。
あまりおおっぴらに「この一首こそ最高の作品」と言いづらいが、時折こっそり人に教えている一首だ。
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