見出し画像

短歌における「省略」について

短歌を分析して言語化出来るタイプの歌人には、俺の短歌は「省略がうまい」とよく言われる。それは結果としてできた短歌にはたしかに当てはまっているのだが、省略という手順を踏むと、実はこのタイプの短歌はできない。とはいえ、神秘化するほどの話でもないので簡単に説明する。

たとえば報告書のような形式においては「5W1H」などが重視される。いつ、どこで、誰が何をしたか、といったことを、要素を漏らさず書かねばならない。したがって、社会的には人間の言語活動は省略を「しないように」矯正されがちである。

ところが、詩歌に置いては、 「今日僕は起きて着替えて食卓でたまごをかけたご飯を食べた」 と書いたら、いまいちな短歌だな、と思われる。ひとつの典型的な詩歌の方向性として、社会性の衣を脱いで生の言葉をきかせろよ、というものがあるのだ。

と、ここまでは「省略」の話である。5W1Hのうち、いずれかあるいは複数を省略することにより、生っぽい感触を得ることが出来る。

しかし、いま言った話を実践しようとすると意外と難しい。なぜなら、5W1Hのうちどの要素を省略してどの要素を残すかというのは、要素の数がN個あれば、極論2のN乗まで可能性がある。多作多捨と言ってもいくらなんでもやってられない。

じゃあ実際に省略が多い(そして適切な)タイプの作者はどうしているかというと、逆の手順を踏んでいる。いや、正確に言うと手順は踏んでいなくて、やっていることは一つで、「感動に集中する」だけだ。

その事象における自分の感動ポイントにノリノリになりまくっていると、慣用句で言えば「ほかのことが見えなくなる」のだ。

見えないものは、書かない。感じ取った感動体験を言葉にした結果、5W1Hから欠落する要素が出る。それは実は省略ではない。なぜなら、この言語化活動において、5W1Hのそろった完成状態の文は経由していないからだ。

しかし私達は、先天的にか後天的にか、いくつかの要素は人に伝える時の重要ポイントだと思い、省けないものだと感じている。そのため、ある感動を言語化するとき、短歌にしようと思うよりも先に散文を完成させてしまう――いや、ここはもう少し厳密に言おう、散文という言語化までたどり着かなくとも、散文にする用意まで私達はやってしまいがちである。すなわち、それがいつのことであり、行動しているのが誰であるか、何をしているのかに、目を向けてしまう。

上のように分解すると一つわかる。それは、いままで私達が省略と呼び習わしていた方法、省略ではなく集中だと私は言ったわけだが、その方法において本当に難しいのは、散文的言語化をしないことではなく、散文的着目をしないことなのだ。

散文で必要な要素を、短歌で略すのは意外とたやすい。なぜなら、短歌は短いからである。しかし、なぜそれを言わないのか、言った要素においてなぜそれを言うのかについて、必然性を持って作品化する速度と深さにおいて、「省略する人」は「はじめから見えてない人」に追いつけない。

すでにいくつかの傑作を持つ歌人・詩人が、作品を作るときに忘我の状態を目指すことがある。あれは、「ほかのものが目に入らない」になりたいから、という側面もあるだろう。彼らは経験的に、見えてしまったものをあとから省略するより、はじめから目に入らないほうがよいと知っている。

とはいえ、「ほかのものが目に入らないから目に入らない」と比べると、「感動して周りが見えない」ほうが本当に目に入らない感じがする。だから、結局忘我の状態を目指すことに虚しさを感じる創作者もあると思う。やはり、本物の感動をする心を持たねばならない。

このあたりから創作者は苦しくなっていく。本物の感動をする心を持とうとして、持てたとしよう。そんな作為によって生まれた感性の感動は、本物だろうか?

私の話はこれ以上特に進展しないのだが、上記のような視点を持つと、たとえば「詩歌と生活とどちらが大事か」という問いかけも、生活基盤があって長生きしたほうが詩をかけるという話にとどまらず、詩のための感動は本物か、感動は世界に探せ、という声にも聞こえる。

(2021年5月2日のツイートを、微修正してnoteに転記した。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?