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『國文学 解釈と教材の研究 2006年8月号』感想メモ


「西條八十の歌謡観 ――『うた』の岐路としての現代」筒井清忠



この文章は、意外性があるという意味で面白かった。
一般の人々がくちずさむような「うた」についての文章。
個人の独創的な芸術表現という観点からは、むしろ口ずさまれるような「うた」は「うた」ではない、あるいは芸術ではないというかたちで差異化が行われると指摘する。
「うた」を身体的にとらえる観点からは、石川啄木にその要素があったと主張し、それはほとんど諺に近づいていたとも言う。
「諺に近づいていた」ということがプラスの評価になるというのは、多くの現代歌人にとって意外な方向性ではないだろうか。
先日感想メモを書いた「深層との対話 川本千栄評論集」では1990年ごろの流行歌と、枡野浩一・加藤千恵・佐藤真弓の短歌が「箴言化」というキーワードで結び付けられていた。
自分は「身体性」という言葉で短歌を評価するとき、「独自の身体性」や「身体性の独自のとらえ方」を評価ポイントとしがちだと感じ、それは近代的な短歌観に毒されすぎているなあと思った。ほとんど誰もが身体感覚を持つという点においては、むしろとらえ方自体は普通で、ことわざになってもおかしくないような身体の使い方に、短歌のヒントがあるかもしれない。

「中野重治『歌のわかれ』の叙情」石田忠彦


中野重治の小説「歌のわかれ」についての文章。なお、私は「歌のわかれ」を読んだことがない。
小説「歌のわかれ」を紹介しながら分析してくれて助かる。さらに、夏目漱石の文学論から「F+f」という式(Fは認識的要素、fは情緒的要素)を引いてきて、文学の潮流を簡単に説明し、そのなかに短歌および短歌的なものの否定も位置づけてくれる。
面白いのは、小説「歌のわかれ」はしかし、そのfの部分が短歌的な魅力を持っているという皮肉についても語っていることだ。
ただし、今後短歌的叙情をどう扱うかの指針は出しておらず、問題提起にとどまっている。

「和歌のイコノグラフィ ――もう一つの韻律」木下長宏」


和歌と仮名の書の関連について、重要なことを語っていると思えたが、いずれにも関心がなく、なんとなくの理解にとどまった。おそらく仮名の書に知識のある人が読むと面白い文章なのではないだろうか。

「短歌と演劇の分岐点 ――口語と韻律」森井マスミ


演劇についての部分は自分にはわからないため言及を控えるが、短歌については説得力に欠けると感じた。
まず、前提として森井は、短歌四拍子説(二拍ずつがまとまりを作って四拍子で読まれる)を踏襲する。

その上で、長塚節・穂村弘・塚本邦雄の短歌を四拍子説で切ってみせる。
白塙の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり  長塚節(『鍼の如く』)
『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむしよ  穂村弘(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』)
しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり  塚本邦雄(『水葬物語』)

三首についての森井の評価は断言されないが、言い回しから推測はできる。

長塚に対して:「意味と音との重層化が、韻文独自の音楽的な魅力を生みだしている」
穂村に対して:「短歌の『調べ』というものが、二音で一拍という日本語特有のあり方と、五・七・五・七・七の句切れが破綻なく組み合わされたとき、はじめて生まれるものであることを、逆説的に示している」(中本注:つまり、穂村の一首には短歌の『調べ』がない、と事実上言っている)
塚本に対して:「例歌はあくまでも韻文として、二音で一拍という結びつきを保ちながら、五七五七七の区切りを、自在にずらして意味を奏でていく」

つまり、調べという観点において、長塚・塚本はよし、穂村はダメという意見と思われる。
だが、私はむしろ、定型からずれていながらもどことなく短歌らしさを残しているという点で、穂村のほうが、韻律を考える上では刺激的な気がするのである。
たとえば「静かに顔あげて」の言い回しが短歌の旧来の言い回しに近く、「顔あげて」が五音であることも使って、穂村は意識的に、かろうじて短歌に見える状態を保ちつつ壊している。

口語と文語の関係において、文章の後半を読むと、文語の優位性を意識しているように思われるが、穂村の一首はむしろ森井の意見の根拠として用いられるべきものであると感じた。ただし、本当に口語が韻律的でないかどうかは、先程の穂村の一首とは違い、文語らしい言い回しを使っているのではない口語秀歌を挙げて検討する必要があるだろう。


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