『現代短歌の鑑賞101』を読む 第二回 柴生田稔
二人目は、柴生田稔。私はなじみのない歌人である。
鬼面人を驚かすようなことは言わないが、「そうかもしれない」と納得するような作風だ。
一首目、まとまらない思いが重なって疲れて眠るというのであるが、「重なりて」の実感と「ほとほと」のおふざけがうまくバランスを取っている。
二首目、私はこの一首にうなずいた。卑怯な傍観者でなかった、しかしそれは「せめては思ふ」のであり、傍観者でなかったからそれでよいと満足はできない。
年齢とともに心がこわばってしまうことを、亡き父だけではないというのであるが、そこには自らの老化も意識されていたであろう。この歌集の刊行時55歳であるから不自然ではない。
だが、柴生田稔は長生きした。最後の歌集は1990年『公園』で、その翌年に死去している。87歳まで生きたという計算だ。
ここで言われている何もかもを成した感慨は、もう何も成し遂げる時間はないという後半部分から逆算して言われたものであろう。心がこわばる自分を見つめた柴生田稔は、その後三十年、滑稽味を忘れず作歌した。
ところで、これは柴生田稔と直接は関係ない話であるが、柴生田の生まれは明治、活動の大半は昭和、しかし最後の歌集は平成で没年も平成、というわけで、いちいち和暦西暦早見表を見なければ何年経っているのかわからない。煩雑である。アンソロジーのたぐいは、西暦で記してほしいと願う。
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