スタバの日差しを避けるシェードの隙間の席にすわり、チャイラテをのみつつ隙間から見える外の歩く人を眺めながら平安時代の御簾を思い出す。
この、隙間から見える短時間のひととなりを眺めるのはなかなか想像力が鍛えられる。
すべて見えるよりも、すこし見える事の艶っぽさはこのたのしみも含んでいるのかな、と思う。
見えないものを見えない箱へ入れる習慣は薄れていき、今は見えてないとおかしい、という人が多くなっている気もする。公序良俗に反しているものを見ない箱にいれてはいけないが、見なくてもよいもの、といものはあると思う。
自分と大きく関係ないものは積極的に目にしなくても良いと思っている。全く見ないわけではない。視界にはある。だがそれは私がみるべきものなのか、と思案する時間。それがみなくてもよい箱、みなくてもよいかもしれない箱。
これが御簾みたいなものなのかもしれない。
世界が狭まると思うならば御簾をあげればよい。御簾の目を荒くすれば良い。直視するかどうかはそのあとでもよい。なんでも直視する世界に絶えられるほど人はそこまで強くはないと思うんだ。
今日は札幌、お盆も過ぎたというのに36℃を叩き出している。灼熱だ。御簾だなんだ言うより家でエアコンと仲良くしていたい。
ふと思ったことなどを絵と共に記録します。 原風景は森の中。野性味じわっとあります。