GEISHA GIRLS論② ーー30年後の少年たち
松本人志とスネークマン・ショー
前章では、GEISHA GIRLSの結成にあたり、松本人志の動機について考察した。それはテレビとは別にお笑いの作品を残すという松本の計画の一環であり、お笑いのビデオのリリースを経て、次はお笑いのCDを作成するという当初のプランが、坂本龍一との出会いによって実現したものであった。
タイトなスケジュールのなか、GEISHA GIRLSのレコーディングを断行した坂本を取り巻く状況はどのようなものだったのだろうか。本章では坂本龍一の動機を明らかにしていきたい。
以下の発言によれば、当初の坂本はダウンタウンに何の興味も示していない。
ダウンタウンとの対談では、以下のように答えているが、それは気を使ってのことだろう。
しかし、前項に紹介した「沈黙の5分」のエピソードが端的に示すとおり、興味がなかったというのは、ダウンタウンにっても同様であった。しかし、松本にとってはお笑いのCDを作るという以前からの計画はあり、有名性や実績を考えても、坂本龍一は申し分のないコラボレーターであったと考えられるのだ。
このような松本の動機を踏まえたとしても、海外で日本のテレビ番組を見るには、レンタルビデオに頼らざるを得なかったという時代を背景が、GEISHA GIRLSを生み出したと考えれると、感慨深いものがある。
もしかしたらインターネットで関心のある者同士がつながる現代では、GEISHA GIRLSは実現しなかったとも言えるだろう。この数年後にインターネットが普及、坂本龍一も率先して音楽活動に活用し、様々なコラボレーションを実現していったことを考えると、GEISHA GIRLSのデビューは、ネット以前の90年代を象徴するかのようなイベントであったと位置づけることができる。
ここで話題を軌道に戻そう。坂本龍一がタイトなスケジュールのなか、自身のアルバム制作を中断してまで、ダウンタウンとコラボレーションするにはどのような事情があったのだろうか。
当時の状況を示す重要な証言を紹介したい。
坂本龍一はフォーライフ・レコードに移籍し、個人レーベルの「güt」を設立する。坂本によればレーベルは次のようなコンセプトだという。
当時の坂本といえば、1992年にヴァージン・アメリカとの契約終了、1993年にはYMO再結成を経て、1994年にフォーライフ・レコードへ移籍、gütを設けることになる。
ヴァージンでは、常にセールスの問題に直面していたこともあり、POPであることは、坂本にとって常に課題であったようだ。2009年の自伝ではそのことを、こう述懐している。
1989年当時、坂本龍一はセールスへのプレッシャーをこう語っている。
ヴァージン・アメリカでの苦い経験もあって、坂本はPOPSであることを強く意識し、日本にレーベルを設立。そこで当時勢いのあったダウンタウンに目を付けたというのが、GEISHA GIRLSをプロデュースした動機であったように思える。
NYのレンタルビデオを介して、POPSを実現したい坂本と、表現の幅を広げるべくお笑いのCDを作りたい松本の思惑が偶然にも一致したというのが、GEISHA GIRLS誕生の背景にあったのではないだろうか。
そこで両者を結びつけるカギとなったのが、実は「スネークマン・ショー」である。近年の松本の発言で、そのことが明らかになったのだ。
ここではスネークマン・ショーを補助線に、GEISHA GIRLSについて、さらに深く掘り下げてみよう。
スネークマン・ショーといえば、ラジオ番組でシュールなコンテを放送するで、業界人を中心としてを中心に話題となったユニットであり、スネークマン・ショーのファンであった、細野晴臣と高橋幸宏がYMOとジョイントでレレコードを作成することを申し出たことで、『増殖』(1980年)がリリースされる。
同アルバムは、スネークマン・ショーとYMOの楽曲が交互に展開される構成となっており、そのフォーマットは、GEISHA GIRLSのアルバムにも踏襲されている。
もっとも当時、坂本のスネークマン・ショーに対する態度は、細野晴臣と高橋幸宏と温度差があるものであったことは、次の発言から想像できる。
巻き込まれたと言えるような事態でありながらも、一方ひおいて、逆手になって楽しもうとする余裕があったようだ。
たまたま坂本のマネージャーがレンタルビデオで見ていたダウンタウン、YMOの細野と高橋がファンだったスネークマン・ショー。坂本はそのどちらもよく知らないまま、巻き込まれたという経緯は共通するところがあるだろう。
更に言えば、同じく両者に共通する「楽しんでしまおう」というポジティブなスタンスに、坂本が生来持ち合わせた楽天的な気質を垣間見ることができるのではないだろうか。
GEISHA GIRLSと世間の温度差
GEISHA GIRLSデビューの経緯や、松本人志と坂本龍一の動機について検討してきた。
続く本章ではGEISHA GIRLSがどのように受容されてきたのかについて考察したい。GEISHA GIRLSを取り巻く世間の状況はどのようなものであったのだろうか。丁寧に概観していくにしよう。
坂本龍一を特集した『ユリイカ』(2008年4月臨時増刊号)に、清水建朗は『90年代の坂本龍一 またはGEISHA GIRLSは如何に戦いそして敗れたのか』という論文を寄稿している。 その一節を紹介しよう。
論文のタイトルが示すとおり、速水はGEISHA GIRLSを少なくともセールス面ではネガティブに評価している。たしかに速水が続けて述べるように、GEISHA GIRLSデビュー翌年の1995年3月15日に、小室哲哉プロデュースでシングル『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』をリリースしたH jungle with tのセールスに及ばなかったのは事実だろう。
しかし、1995年5月19日リリースの『THE GEISHA GIRLS SHOW - 炎の おっさんアワー』がオリコン1位を獲得したことを考えれば、商業的には成功したと言えるのではないだろうか。
1994年といえば、小沢健二とスチャダラパーが『今夜はブギー・バック』(3月9日)をリリースしたり、EAST END×YURIの『DA.YO.NE』(8月21日)がミリオンセラーを達成するなど、日本でもHIP HOPが市民権を得た年であると言える。
そのような状況でリリースされたGEISHA GIRLSの1stシングルは、『今夜はブギー・バック』や『DA.YO.NE』と比べれば、オーバースペックなものであり、かつ時代を先行しすぎていた感は否めないだろう。
まず白塗りのメイクに、日本髪で和服というルックスは、一見してダウンタウンとは分からないだろう。おまけにGEISHA GIRLSというネーミングもダウンタウンをイメージさせるものではない。
GEISHA GIRLSを構成するこのようなコンセプトについては、現在であれば、別人格を演じる「オルターエゴ」という手法で捉えることもできるが、当時の状況を考えると、なかなか理解が難しいものがあったのではないだろうか。
そのように考えると、お笑いコンビのダウンタウンとは独立した浜田雅功の魅力を作り上げることに成功した、H jungleの巧妙なイメージ戦略とは対称的であったといえる。
サウンドにしても、NYでA Tribe Called Questの1stアルバムを手伝っていたこともあるテイ・トウワが『Kick & Loud』のトラックを制作。当時、NYのHIP HOPシーンでリリースしても何ら遜色のないに仕上がっている。
シングルのタイトル曲『Grand ma Is Still Alive』は、マイケルジャクソンやマライアキャリーのリミックスを手掛けた、世界最高峰のプロデュースチーム「DEF MIX PRODCTION」に所属していた冨家哲がトラックを手掛けた。NYのクラブで流れていても、まったく違和感のない、最先端のハウスミュージックになっている。
(なお、シングル曲のタイトルが『Grand ma Is Still Alive』であるのに、『Kick & Loud』の方が、優先的にプロモーションされるという状況も、リスナーを困惑させるところがあった)
NYでデビューするというプロジェクトの体裁が、チャートアクションの足かせになってしまったと言えるだろう。日本をターゲットにセールスするにもかかわらず、NYの音楽シーンを意識してしまうというのは、当時の坂本龍一
のスタンスを如実に示している。
そのようなスタンスに対する反省を、坂本は2009年の自伝でこう語っている。
1993年のYMOの「再生」について言及しているが、それはGEISHA GIRLSにも当てはまることだろう。
もっとも当時のNYは文化や音楽の世界的な中心地であったし、東京のミュージックシーンも、NYのトレンドに敏感であったので、坂本龍一の選択も間違いであったとは言えないだろう。
本稿冒頭でも引用した『async』でのインタビュー発言は、この頃の坂本龍一とは、正反対のスタンスを示すものとなっている。
その意味でも、GEISHA GIRLSは90年代の坂本龍一をシンボリックに映し出すプロジェクトであったと結論を導き出すことができるだろう。
【続く】
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