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GEISHA GIRLS論① ーー30年後の少年たち

なぜGEISHA GIRLSか


90年代頃は、偽R&Bのような音楽を作っていました。偽のハウスや、偽のヒップホップのような音楽をも。これらはあまり満足いっていません。いっそあの時代を抹消したいとも思います。

The Creative Independent

skmt archivの本論は、坂本龍一の大胆な告白の引用から始まる。

しかし、坂本が1990年代の作品と距離を置いていたことは、少なくともファンの間では、なかばコモンセンスのような事実であったと思う。

なぜかといえば、上記引用は2017年の『async』がリリースされた際のインタビューでのものだが、それよりも以前から、坂本の作品はPOPSを意識していた1990年代の作風から乖離し始めていたし、坂本が1990年代の諸作品について、積極的に携わる機会もほとんど見られなかったのである。

具体的に指摘すれば、ヴァージン・アメリカに残した1991年の『Heartbeat』については、ヴァージンがEMIに買収されたタイミングで、再発されずに廃盤の扱いとなったままであるし、未公開音源を取り上げるというコンパイルでリリースされたyear bookのシリーズにおいても、不自然に90年代の作品をコンパイルしたものだけがリリースされていないからだ。

さらに決定的なのは、リマスタリングによるリイシューがトレンドになる中で、自身が設立に携わったMidiレコ-ドの作品や、ヴァージン・アメリカ移籍後の1作目となった『ビューティ』(1989年リリース)などは、本人の解説付きで再発されているにもかかわらず、1990年代のある時期の作品については、本人監修による復刻がなされなかったからである。

それでは坂本の言う抹消したい時代の作品とは具体的にどの作品を指すのだろうか。
オリジナルアルバムを列挙すれば、ヴァージン・アメリカでの『Heartbeat』(1991年)、gutレーベル設立後の『Sweet Revenge』(1994年)、『Smoochy』(1995年)を指していると考えられる。

なぜなら、それ以降の作品について、ピアノ、ヴァイオリン、チェロによるトリオ編成の『1996』(1996年リリース)、オーケストラの書下ろし作品『Discord』(1997年リリース)と大きく作風を変えているからだ。

つまり、1995年と1996年の間には大きなキャズム(断絶)が存在しているのではないか。それでは、この時期にいったい何があったのだろうか。

それは1994年と1995年の作品をリリースしたGEISHA GIRLSのプロジェクトである。

本書は、これまでに深く論じられる機会の少ない1990年代の坂本龍一の活動や諸作品について考察することを目的としているが、その起点は次章以降で取り上げるGEISHA GIRLSになる。

GEISHA GIRLSの起源を追う

坂本龍一がプロデュースしたダウンタウンのラップユニット、GEISHA GIRLSのデビューシングル『Grandma Is Still Alive』がリリース(1994/7/21)されて、今年でちょうど30年となる。

GEISHA GIRLSでの活動は、90年代の坂本龍一の活動を考察するうえでもっとも重要なケーススタディであるにもかかわらず、2009年に刊行された坂本による自伝『音楽は自由にする』では、何ら言及されていない。「無かったことにされている」といっても過言ではないほど、坂本本人とGEISHA GIRLSには大きな断絶(キャズム)があるように思えるのだ。

しかし、GEISHA GIRLSが「種」となって、その後のポップスを始めとした音楽活動の幅が広がりをみせていったように考えられるのだ。後に詳述するとおり、中谷美紀の一連のプロデュースワークや、生涯を通じて演奏された『美貌の青空』が誕生したいったと考えられるのである。本稿ではGEISHA GIRLSが、坂本龍一の音楽活動に与えた影響について検討することとしたい。

GEISHA GIRLS結成の端緒は、坂本龍一のマネージャーがダウンタウンの大ファンであり、1993年12月12日放送の『ガキの使いやあらへんで』の公開録画を見に行ったことに始まる。収録後、楽屋に挨拶に行った坂本であるが、何の接点もなく、重苦しい雰囲気のまま、車の用意ができるまで「沈黙の5分」を過ごすことになる。

しかし、坂本がニューヨークに戻って、gutレーベル移籍後の初アルバムとなる『Sweet Revenge』(1994年)のレコーディングに取り掛かってから一カ月半後に事態は急変する。1994年1月2日の『ガキの使いやあらへんで』での以下の発言が、スタッフから坂本に伝えられたのだ。

いっちょやな、世界の坂本に曲書いてもらって全米デビューするんですよ

松本人志(GEISHA GIRLS KEN)『ガキの使いやあらへんで』(1994年1月2日)

かくして、「この十年間のうちで最も忙しい二ヵ月」と本人が語るほどのレコーディングを一時中断して、GEISHA GIRLSは始動したのである。

ここで重要な事実を指摘しておきたい。それはGEISHA GIRLSが浜田雅功ではなく、松本人志のオファーによって始まったということである。

つまり、のちに小室哲哉プロデュースによってH Jungle with tとしてデビュー(1995年3月15日に『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』をリリース)、その後も槇原敬之や中田ヤスタカとコラボレーションするなど、音楽活動に前向きな浜田雅功ではなく、松本人志によってGEISHA GIRLSは実現したのである。

なぜだろうか。その答えになる重要なインタビューを紹介したい。

お笑いのCDを作ることは、前からやりたかったんで。3年前に自分で『頭頭(とうず』ってビデオを録ったくらいの時からかなぁ。その時は音楽的なことは何も考えてなかったですけど

松本人志(GEISHA GIRLS KEN)『Bart』1995/6/12号

この発言からも推測できるように、笑いを軸にしつつも、テレビとは異なったフォーマットで作品を残すことを、以前から松本は考えていたのである。

つまり、松本人志は公開収録後の楽屋での対面を経て、坂本龍一とコラボレーションすることで、お笑いのCDを作ろうと考えたのではないだろうか。。

実際のところ、この後にも『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』(1998~1999年)をリリースしたり、映画『大日本人』(2001年)するなど、テレビとは異なった形態で、松本人志はお笑いを軸にした作品を残していくことになる。

これらを踏まえれば、GEISHA GIRLSを発端に、小室哲哉や中田ヤスタカなどとのコラボレーションを通じて、音楽活動を推進していった浜田雅功と、お笑いを軸に置きつつ、音楽や映像などを組み合わせることで表現のフォーマットを拡張していった松本人志のスタンスの違いは、GEISHA GIRLSがきっかけになって、より鮮明になっていったとも考えられる。

【続く】

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