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葬儀

別れに際し気持ちを整理する過程は誰にだって必要なものだ。その時間の長さ、その過程は人によって様々で、しめやかに相手を送り出し、「生」と「死」を分かつものとして、誰かの「死」に際し人は葬儀を執り行う。「死」が「別れ」であるならば、「別れ」に際している私だって、ひとつの区切りとして葬儀を行わなくてはならない。

あなたが居なくなってから経った日数を指折り数えることもやめてしまった。この部屋に仏壇や遺骨があるわけではないから、手を合わせたり遺影に向き合ったり、悼む形で気持ちを葬ることが出来ない。私が会えるのは唯一、カメラロールに居るあなたで、最早過去である。過去でしかない、と分かっていても眺めてしまう。人間の性なのか、私という人間性なのか、分からない。陰鬱とした明け方、緑色のカーテンを開ける。今日は多分天気が良い。

好きだ、という言葉は不確かだ。言えば言うほど、相手に届かない気がして、離れて行ってしまう気がする。言わないでいることで、自分の好意と相手の好意を比べる必要もなくなる気がする。けれど、言葉にしなければ伝わりづらい、感情はいつだって難しい。白いタンクトップ、お気に入りのジーンズ、揃えたサンダル、好きだった大きな麦わらを被ってドアを開ける。まだ蝉は鳴かない。私の葬儀に喪服は似合わない。今から葬るのは、私の人生に染み付くあなたなのか、あなたが染み付いた私なのか、曖昧なままで自転車に跨った。

もし、あなたの遺骨が手元にあったらどうしたかな。しばらくは抱いて眠って、もうしばらくしたらお墓に入れたり、ペンダントにして持ち歩いたり、思い出の地に一緒に行ってばら蒔いたりしたのだろうか。あなた、という存在の確かさを、あなたが居ない空間、という不確かさで認識する。二人で選んだカーテン、食器、その何処にも、もうあなたはいない。坂を下って交差点で止まる。右折する私、あの日左折していったあなた、いつか会える日が来たとしても、既に私は「いつか」を待つことしかできない人間になったのだ。

写真を消すことが出来ないのは、カメラロールそのものが遺影と化しているからだ。眠る横顔ももう見ることはないし、歩く速度ひとつ、きっともう他人だ。私の知っているあなたがもうこの世のどこにも居ないこと、それは、私の中のあなたが死んだことと変わりない。同じ名前、同じ顔、同じ時間を享有して生きてきたはずなのに、なぜだかもう、どこにも居ない。私が愛したわたしが知らない誰かが、今日もどこかで誰かを愛して生きている。

空を遠ざけるみたいなさざ波が迷うように行ったり来たりしている。私の知るあなたが、私の生活から消えてゆき、いずれ私の心からも少しずつ色褪せていってしまうのなら、色鮮やかなうちに思い出にとどめを刺すべきだ。それは葬儀を行う理由になる。携帯を取り出してカメラロールをひらく。これが遺影だとしても、お前とは、もう共に海など見てやらないのだ。スワイプひとつ、あなたの写真を消して、笑顔を消して、繋いだ手をほどいて。それから、どこにいこうか。骨壺も無い、遺影も無い、どこにもない、自分にも、なんにもなかった。波が静かにサンダルを濡らして、慰めるように蝉が鳴き始める。


手始めに私は、思い出の意味を確かめるために、あなたとの思い出を上塗りして生きていくことにしたのだった。

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