9/23~25 東京

久方ぶりにキャリーバッグを引いて旅行に行った。敬愛する推しのライブのため。関西を出てから遠征するのははじめてで、やっぱり田舎からのほうが色々とお金がかかるし、大がかりな遠征の感じがした。

東京の街はなんでもあるけどなんにもない、に少しだけ触れられた気がしている。目的を達成することが容易い街で、こんなにもあらゆるものが溢れた街で、それでも虚無を感じて生きていく人が居る事実が、どうにも信じられない気持ちと、そうだろうなという納得感のふたつがある。
永遠に時間を潰せる街のなか、行きたい場所に行くのは簡単だったけれど、目的がない場合こんなに苦しい街は無いんじゃないかとも思った。
田舎はその点行く場所も選択肢も限られているので、限られた中から選ぶことのほうが案外精神的には楽なんじゃないか、とふと思った。

駅を降りて会場に向かう、駅を出た時点で溢れる人に驚きを通り越して若干引いてしまった。推しを好きな人がこんなにもたくさんいて、こんなに多くの「好き」の形があって。そりゃぁこんだけ人間いたらいろんな風な人がいるよな、と思った。

これは地元に帰ったあとに友人と少し話したことで、推しも昔「一対一が無限にある」みたいなことを言ってくれていたけれど、わたしと推しの距離感はずっと変わらないままなのに、推しの規模感だけが変わってしまった気がしていて、そこにいつか取り零される予感があって怖い。

推しのライブの感想や考察は今回は割愛します。ツアー完走後にみんなと話せたらいいな。

年単位で会えなかった友人が自分のことを覚えていてくれたり、会いたいと思ってくれる、それだけでとびきり幸せだった。
たくさん歩いていろんな場所に行って、たくさんお話をした。この多幸感をどう表現しようか、とおもって、噛み締めるに余りあるこの気持ちを落ち着けたくてこれを書いている。
いつだってしんどいときは推しとフォロワーが助けてくれた。救われてばかりの人生で、わたしは全然なんにも出来ていないけれど、ありがとうって思ってあと少しだけ生きてみる。

たのしかった、楽しかったな、本当にたのしかった。
今年で一番たのしかった。何がと言われるとすべて。
こんな日のこともいつか薄れて忘れてしまうのだけれど、忘れてしまうことを受け入れてゆける気がしました。

過去のnoteに書いたか書いていないか忘れたけど、わたしは学生の頃から日記を書いていて、それをはじめたきっかけが「大人になったわたしに今のわたしの気持ちを忘れてほしくない」からだった。でも、汚いばかりで読み返すこともなく、大半が黒歴史のそれを残しておいてももう仕方ない気がして、いよいよ捨てるタイミングかもなと思っている。
もらった言葉もたくさん綴ってある、そのほとんどを私は忘れているし、人を傷つけたことも傷ついたことも書いてあるのに、忘れている。全ての思い出を背負って生きていくことは出来ない、ということを受け入れなくてはならない。

最近は、というか、ここ2年の波乱がやっと少し落ち着きそうだから、少しずつ出来ることを頑張っていこうと思う。7割しか頑張れない自分のことも受け入れられたらいいな。

雑多な書き散らしでした。
久しぶりにこの言葉を使います、余韻!

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