雑草で出来た花束
夕立や雨が多くて、こんなにしっかりと梅雨時に雨が降るのも久しぶりな感覚がある。そう思うくらいの長さは生きてきたけれど、人生何年時代なのかもう分からないくらいになってしまっていて、それが果たして本当に幸せなことなのかどうか考えてしまう。長生きできるようになっても、死にたいと思う人間は減らない。仮に長生きしてしまっても、「たまたま生きてこれただけ」っていう感覚が強くなっていくのだと思う。わたしが生きていることも、あなたが生きていることも、どうせしょうもない。くだらない偶然の上で飛んだり跳ねたりしているだけのことを、生命とかって言っている。
感動の有無はさておき、生きている限り「はじめて」のことって減らないな、と思う。学校に行ったり働いたりして生きていくわけだけど、見る範囲を狭めてしまえば、今日だってはじめての今日だ。一分一秒、生まれて、瞬く間に死んでいる。焦げ付くほどまぶしくは生きられないけど、「そのへんの人」になって生きることくらいは出来るかもしれないな、と今は自分に対して思っている。擬態している、という感覚は消えないままだけど、それでいいような気もしている。そんな気持ちすら、自分だけのものにはなってくれないのだから。
気が付いたら今年も半分終わろうとしていて、雨が降ろうと日差しが強まろうと、心はなんだか春の陽気とかお花見のあたりで止まっている気がする。何もなかった1年だ、なんてことだけは言いたくないから、「今日はなにもできなかったな」と「今日は~ができたな」をリピートする。日々くだらないことしか出来ていないけれど、なんだか今は、死ななくてよかったな、と思っている。明日には死にたいって言ってる。コングラチュレーション、おめでとう、雑草で出来た花束を貰ったような気持ち。
思えばいつだって私は「未来の自分」の存在だけは信じていた。どうせ明日も死ねない、明後日も死ねないから、長く長く期間を決めてみたけれど、それでもやっぱり死ねないし、なんなら生きててよかった~なんて言っている。深淵、暗い深い汚いおぞましい自己嫌悪のなかを宛もなく這いずっていたことに間違いはないし、進んでいるのか後退しているのかも分からないし、実際いまも自分がどこにいるのかなんかわかっちゃいないけど、たまたま生き延びたら、たまたまそこに日が差してきたぐらいのものだと思う。
どん底まで落ちたら這い上がるだけ、とか、闇の中でこそ光るものが、みたいな暗いフリして明るい言葉がどうも好きになれないな。闇は闇だし光は光です。そこで息してればいいよってしか思えない。わたしの不幸や幸運、あなたの不幸や幸運も全部、どうせ偶然なので。