音楽があって良かった

ベランダで夜の風を浴びながらコーヒー牛乳を飲んでいる。イヤホンを通して音楽を聴いて、ぼんやりとこのnoteを書いているところだ。外の空気が本当に気持ちいい。夏が来るなあ、と思わせるような匂いがしている。明日は雨が降るらしい。仕事に行きたくないなあ。今流れてるのはハルカミライの「世界を終わらせて」。こんなに切実なラブソングがあるか?聴く度に泣きそうになる。ハルカミライの新アルバムも楽しみですね。

こんな時代になるとは思っていなかった。
2019年、なんだかんだで40本ほどライブを見に行った。その前の年が20本もないくらいだった気がするので、一気に倍近く見に行ったことになる。ちょっと無理しすぎてしまった気もするので、来年はちょっとライブに行くのも抑えめでいこうかな、なんて考えていた。こんな形で減らすつもりは全くなかった。それでも2月末までに7本のライブを見に行ったので、そこそこ行っていた方だろうと思う。中止だったり延期になったりしたライブの数を数えるのはもう辞めてしまった。

医療従事者、と言うにはちょっと末端すぎる気もするが、私の仕事は分類するならば医療のくくりに入る。そのため、こんな事態になっても仕事はまったく無くなることはなかった。それについては特に思うことは無い。逆に、仕事が無くならずに済んでよかった、と思っている。私も、私の同居人も、この事態の中でも現場に出て働かないといけない仕事をしていたので、在宅勤務というワードはわが家には無関係だった。

仕事はなくならないのに、ライブは無くなってしまうのはかなりメンタルに来た。さらに「みんな、頑張って家にいようね」というような言い回しもわりとメンタルを削りに来ていた。ごめんな、家にいられなくて。自粛期間も普通に毎日出勤してたな、もちろん明日も仕事だ。緊急事態宣言が発令されていた頃の電車のすき具合も見てきているので、日に日に増える人の多さにちょっぴりへこんだりもする。でも、本当に必要のない仕事なんて存在しないということもまた、今回の件で思い知った。急を要するかと言われれば、不急なものも確かにあるけれども、それでも本当に不要であれば仕事として成り立たない。誰しもの生活が、一人きりでは成り立たなくて、ひとりでは生きていけないんだなあ、と実感する。

ライブに行けなくなった。私の中ではもはや「生活」の一部になっていたものだ。毎日毎日、通勤中や休憩中、帰宅してから寝落ちるまでずっと音楽を聴きながら生活しているので、それを直接感じられるライブは私にとって生きがいで、生活だった。二次元のオタクと邦ロックのオタクの2足のわらじを履いてるので、聴く音楽のジャンルも日によってさまざまだったが、それでも音楽のない日は存在しなかった。
ライブもイベントも中止になって、それでも音楽は無くならなかった。それが私にとっての救いだった。けれども同時に、この音楽を直接聴ける日はまだまだ遠いのだなと思うと苦しくもなった。
毎晩、音楽を聴きながら寝る。公式のYouTube動画でMVを見たり、衝動的に買ったライブ円盤を見たりしている。推しているバンドが生配信をやったりすることがあればなるべく見るようにしていたし、ライブハウス支援等にも積極的に参加するようにしている。そんなことをしていると、まだ音楽と繋がっていられると思えるし、少しでもこの繋がりを絶やしたくないとも思う。

音楽のこと、こんなに好きじゃなかったらきっと、ライブに行けないこともここまで苦しくは感じなかったんだろうな。こんなにも好きだから、苦しい。その苦しさを増長させるのも、和らげてくれるのも、どちらも音楽だ。
音楽に対してクソデカ感情を抱えすぎている。
そろそろこのクソデカ感情を自分でもどうにも出来なくなってきていて、最近は音楽聴いてるだけでぼろぼろ泣き出してしまったりする始末だ。悲しい曲だけじゃなくて、明るい曲、未来を感じる曲でも、愛しさを感じては涙が出てしまう。真っ暗な部屋で布団に入ったまま音楽流してアラサー女が泣いてるのは傍から見たらだいぶヤバい絵面だろう。
ほんとうに、あまりにもあまりな状態だなあと思うので、このクソデカ感情をどうにか発散しないともういい加減にしんどいなと思い始めた。それがこのnoteの目的です。前置きが長い。
今日はこの曲を聴いたよ、こんな所が良かったよ、ここが好きなんだよ、と、思ったままにまとめられる場所が欲しかったので、気が向いた時にでも更新したいなと思います。Twitterは流れちゃうし、長くは書けないので。

こんなことをつらつらと書いていたら、冷たかったはずのコーヒー牛乳はとっくにぬるくなってしまっていた。どれだけこの画面と向き合ってたんだろ、1時間くらいかなあ。明日仕事行きたくないなあ。今流れているのはgo!go!vanillasの「アメージングレース」。MVを見る度に愛しすぎて泣いてしまうが、僕らの未来に賭けてみよう、という歌詞の通りだな。


人の記憶の中でいちばん薄れやすいのは音の記憶だという。確かに、亡くなった祖父が私のことをどんな声で呼んでいたか、その音を思い出そうとしてもなかなか思い出せない。あんなに好きだったのに、呼び名は覚えているのに、その声がどんなふうだったかは思い出せなくなってしまっている。
音楽があってよかった。何度でも繰り返して聴いているうちは、大好きなこの音楽を、歌声を、忘れずにいられるだろうから。

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