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「薩摩の風に送られて」ご紹介№003「第一章・⑥島津のとる道」~九州の雄「薩摩島津」が動く

北、中央、南と。
日本を三つに分けて統治する「日本三分の計」を表明した九州の雄「薩摩島津家」。
その戦略も決定された。
義弘が、忠恒が起こした伏見事件の件を西軍の石田三成に詫びを入れることで東西決戦を長引かせ時間を稼ぐ。
その間、島津忠恒を総大将とし、九州制覇を行う。

島津は強い。
戦国期における島津家の戦いの歴史は、大きく三つに分けられる。
薩摩、大隈、日向の覇権をかけ争った三州統一戦。
後に九州三国志として語り継がれた九州制覇戦。
太閤秀吉の大陸出兵「朝鮮の役」がある。
これらの戦いにて、島津義弘は「鬼島津」と謳われ、島津家は、戦国末期最強の軍団としてその名を世に知らしめることとなる。

島津忠恒が九州制覇を賭けて出陣を急ぐ中、一人の男が遥か北の奥州へ向かった。
鬼武蔵こと「新納忠元」である。
忠元の目的は、義弘の名代として奥州の独眼竜こと「伊達政宗」に会うためであった。

次回は、新納忠元が伊達政宗のもとへ
第二章・奥州の独眼龍」を、ご紹介させていただきます。


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