黒い洋風の家

 黒い壁と煤けた木材の屋根の家で、玄関を開けると平衡感覚に異常をきたした。天地の軸が撓み、背骨を抜かれたようでどちらを向いているのかが分からなくなりながら靴を脱いで上がろうとすると、白い白い白いブラウスに白いレースのエプロンをつけたお手伝いさんタイプの誰かが、ここは洋風ですのでというので、靴を履き戻した。


 耳の穴の中がじんじんと熱く、とりとめもなくうっとりとしていて、リビングに通されるとテーブルの上にバスケットが置いてあり、三つのリンゴだった。一つが青い。素敵な木のテーブルで、焦げ茶色のずっしりとしたハードウッドでできていて、重そうでお手伝いさんが淹れてくれたコーヒーが置いてある。


 何故だか窓の外は眩しいほどに真っ白で目が付いていけず何も見えない。露光が狂っているようだが、コーヒーだけでは物足りず、ビスケットをかじろうとすると胸が重低音の鼓動でどくどくと揺れ、以前の世界では確か狂人の宴のようなものだったと思い出す。

 ハウスのそとは森でできているはずだ。鬱蒼として突如ぽっかりと空が開き、陽光が降り注いでその中に黒の家が建っていてそこに入ってきたのだった。しかし、昨晩はまだ森にすらいなかった。街は多くの人でそこには充満した何かがあり、時おり悲鳴も聞こえた。甲高く、サイレンが鳴ってまた人が蝟集して、咳き込み、胸を抑えてうずくまる者もいた。


 白衣の防毒集団が一人一人を検分して、ダメそうならトラック、良さそうなら丁寧に救急車で移送していったが、逃げること自体は許されていた。街にはもういる必要がないと思い、便利さは特に失われないと分かっていたので、端末だけを持ってとぼとぼと田舎の道をあるいたのだ。夜が深まり、コウモリの鳴き声? のような音が聞こえた。道の端に細いひもと一枚布だけで作ったようなワンピースを着た女が立っていて、何をしているのかと尋ねると、コウモリを捕まえているのだと答えた。女は若く、すらりとした細身で長い髪をしていたが、靴は履いていなかった。ここは洋風じゃないのかと尋ねてみると、口元にぴくりと瞬間的な笑みを浮かべ、溜息をついて首を振った。女はコウモリを捕まえてはいないようだったので、再び道を歩き始めた。星空がぐるぐると渦を巻き、やがて地平の際が白み始めてきた。建物はまばらにぽつぽつとあり、砂漠のようだったが、最後のガソリンスタンドを過ぎた先にこんもりとした森が現れた。その辺りで端末の電池がなくなり、後は小銭がポケットの中にほんの一掴みほどだけだった。森の入り口で巨大な木が倒れていたので、腰を掛けてどうするか考えていたら、田舎道をがりがりと削りながら一台のジープが走り去っていった。助手席に乗っていたのは黒く焼けてサングラスをした唇の赤い女のようなものだった。そうして日が程よく上がった頃に、暑くなってきたので森に入ってさくさくと歩いたら、ここに着いたのだ。


 街はたぶん、もう倒壊したと思う。人と人の距離が近過ぎるのが原因だったが、争いの百倍くらい平和を好き好んでいれば、まだそれなりに片付いたかもしれない。


 コーヒーを飲み終わったので片付けようとキッチンに入ると、その奥で物の倒れる音がした。お手伝いさんかなと思い、覗くとそこはバスルームで、そこだけ何故か百年ばかり放置されていたように埃が積もり荒れ果てていた。でもたぶん、ここをきれいにすれば住むには悪くないと思った。電池もないので、もう端末もいらないというか、持っていても意味がないので、手始めに風呂に入ろうと思い服を脱ぐと服の下には何もなかった。慌てて服を着なおそうとしたが、手も空気になっていた。首から上だけが存在している格好になるが、そもそも見えないので無いのと同じであることに気付いた。街を出るべきではなかったということだろうか? 皆でともに苦しめと? たぶんそれも違う。


 唯一、それらしいと思えるのは、家に入る時、靴を脱ぐべきだったということかもしれない。(了)