『ツィゴイネルワイゼン』
夢を考えると本当に不思議だなと思う。特に、長くていろんな展開がある夢を見ると。
現実で考えたらあり得ない出来事を、夢の中の自分は現実として当たり前のように捉えてる。
でも、起きてる状態で振り返ると、もし同じ状況にいま出くわしたら絶対におかしいと思うはずだと考える。
なぜ夢の中では、大して驚きもせず異常な状態を受け入れていたのか?
今まさに感じている現実の"常識"が、果たして本当に"普通"なのか?
例えば、現実(と思える空間)では人間が空を飛ぶ事は不可能だというのは常識だけれど、
僕が何度も見ている夢の中では、自分が空を飛べる事を当然と普通に考えている
-というか、歩く時に"自分はなぜ歩けるのか?"とわざわざ考えていないのと同様に、自分に備わってる基本的な運動能力の一つとして、事が進んでいたりする。
そう考えると
あの世とこの世、異なる空間に、自分でも気が付かないうちに入り込んでしまう事は有り得るんじゃないか、メビウスの輪、歩いていたらいつの間にか裏返っていたというような。
空間自体にルールがあって、空間と存在は、分解していくと同質のモノで、だから・・・云々。
そんな事を考えていて、ふと思い出したのが、
鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(1980)。
日本の映画では一番好きかもしれない。
あの世/この世(或いは夢/現実)の境目がどんどん曖昧になり、通常の感覚ではとても捉えきれない世界に嵌っていく。恐ろしく不気味で美しい怪奇文芸映画。
冒頭、二人の男 -中砂(原田芳雄)と青地(藤田敏八)- が、作曲者のサラサーテ本人がヴァイオリンを弾いている"ツィゴイネルワイゼン"のSPレコードを聴きながら、途中で入ってくるおぼろげな音声について「何て言ったんだろ」「君にもわからないか」という会話のシーン、この雰囲気から一気に持っていかれる。
ほか印象的なシーン・画は沢山あって、
洞窟の中での"骨"の取引き(原田芳雄の声が不気味に響く)、青地の家に向かう切通し、蒟蒻を千切り続ける中砂の妻(大谷直子)、彼岸に誘う子供、旅芸人三人(麿赤児!)の挿話、などなど全体に奇妙で不思議な空気感が漂う。
日本の怪談の本質的な恐さを感じる。
中砂の自由奔放で裡に孕む静かで激しい狂気を演じた原田芳雄を筆頭に、全役者が素晴らしい。
あと、個人的に藤田敏八の台詞回しが癖になる感じで、豆まきのシーンの「鬼は外!」の台詞のところがなんか面白い。
『ツィゴイネルワイゼン』
「殺しの烙印」(1967)、「悲愁物語」(77)の鈴木清順監督が、内田百間の「サラサーテの盤」などいくつかの短編小説をもとに、夢と幻が交錯するなかで狂気にとりつかれた男女の愛を描いた幻想譚。大学教授の青地と友人の中砂は、旅先の宿で小稲という芸者と出会う。1年後、中砂から結婚の知らせをうけた青地は中砂家を訪れるが、新妻の園は小稲に瓜二つだった……。80年、東京タワーの下に建造されたドーム型の移動式映画館シネマ・プラセットで上映されたことも話題に。日本アカデミー賞の作品賞ほか、ベルリン国際映画祭の審査員特別賞を受賞するなど国内外で高い評価を受けた一作。
監督: 鈴木清順 製作: 荒戸源次郎 原作: 内田百聞 脚本: 田中陽造 撮影: 永塚一栄 音楽: 河村紀 出演: 原田芳雄/大谷直子/藤田敏八/大楠道代/真喜志きさ子/麿赤児/樹木希林
"世界を描く"という試みに真摯に臨んだ創作は、単純明快なモノには成り得ないと思っている。
"詩(歌の歌詞含み)"もそういう考え方をしているので、聴いて直ぐ解るような歌詞は書か(け)ない。
明確に伝えたいことがもしあるなら、直接に話すなり(たとえばライブならMCとかで)すれば良い。
ただ、作品として仕上げるには、難解なままではなく最終的には"ポップ"にしたいとも思っていて、
その"ポップ"は、あくまで僕の捉えている感覚でいう"ポップ"なのだけれど、
その視点から観て、
この映画も"ポップ"だと思う。
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