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選挙に行かないよりは、投票先を気軽に決めよう、というお話

 どうも、学生たちと話していると「正解がある」という前提から脱却するのは難しいことだと実感することが多々ある。わざわざグループワークで議論をしてもらっていて、授業が終わった後に「で、この問題の正解はなんだったんでしょう」と聞きにこられたりすると、ガクッとなるわけである。もちろん、大学の授業でディスカッションしてもらうようなテーマであれば大抵、絶対的な間違いというのはある。統計的に見れば錯誤だとわかる事実認識、物理的、技術的限界がある解決策、そしてもちろんどのような倫理基準から見ても受け入れ難い目標、と言ったものはあるわけである。一方で、それらの課題に配慮して行くと、何が最善かわからなくなることは多々ある。自然科学的な知識も絶対というわけではなく、専門家の予測も分かれるような場合でも、なんらかの「結論」は出さなければならない場面に直面せざるを得ないわけである。
 選挙というのも、大抵はそういうものである。しばしば過剰に控えめに見える自然科学者に対して、経済学者は自信たっぷりなことが多いように思えるが、社会科学的事象というのは、自然科学的なそれよりもさらに不確実で、未来が見通し難いものである。
 そんな中で、専門知識を持たない有権者が「正解」に辿り着くのは不可能であるように思われる。これが、誠実な若者を選挙から遠ざける一因であるかもしれない。しかし、選挙というのは「正解を知っている人が投票できる」という類のものではない。ルソーが述べているのは「みんな適当に間違えるものである。それぞれが自分の頭で考えて投票すれば、間違える方向がバラつき、結果として返って正解に近づく」ということである。なので、有権者一人一人が「全体にとって最適な政策」を誠実に考える責務があるということは大前提として、その上で間違えた投票をすることは織り込み済みである。どうも、誠実な投票者ほど「外したらどうしよう」と思うものだし、逆に誠実に考えない人間ほど自分の利益だけを考えた投票や、面白半分の投票をするのではないだろうか? なので、少なくとも「正解が分からなければ投票に行くべきではない」と考えるべきではない。
 また、政策について議論するのは一般に良いことだが、誰かから、その他人の考えた正解を教えてもらって投票する方が、特定の間違いにレヴァレッジをかけてしまうことになるわけで、好ましくない。所属団体から「この候補を応援しよう」という案内がある場合でも、一応その人の政策について、自分の頭で考えて、納得できなければ自分が納得する方の候補者に票を投じる方が良いだろう。

 あと、あまり候補者の誠実さ、善良さ、あるいはリーダーシップなどに期待をしなくても良いだろう。もちろん、取り繕った誠実さは必要で、デュープロセスや他者の権利を尊重しているふりが破綻していないかは見た方が良い。一方で、能力や性格などというのは、大抵の場合幻想である、また、「優秀で果断な指導者がおり、社会を良くするのは法律や制度ではなく、そういった指導者の強いリーダーシップである」という期待(というか願望)は最悪の場合ファシズムを呼び込むし、そうでない場合も大抵の場合、多少の成果は長期的な制度疲弊によって打ち消される。それよりは作成される法律の条文を評価することであり、また「ハンドルを握っているのは政治家ではなく、我々有権者である」という前提を忘れないようにすることである。
 大体からして、野党は責任が薄いので、薔薇色の未来を描きがちである。一方で与党がそう言った公約を打ち出せば「なぜこれまでの任期中に実現しなかったのだ」と非難されるため、それまでの政策の延長線上にある公約になりがちである。しかし、「薔薇色の未来」を単純に切り捨てるべきではなく、それで政権をとらせてみて、少しでもその実現のために努力をさせるべきであろう。そして、その成果が十分でなければ政権を変えるべきである。次の選挙では、今度は野党になった旧与党が「薔薇色な政策」を打ち出し、再度与党になってその実現に四苦八苦することであろう。そういう形で、政党の政策は鍛えられ、社会制度は少しずつ進歩していく。強いリーダーがパッと実現してしまう「改革」などということがあり得ても、それはリーダーが辞めたり変心したりしたら崩壊するだろうし、そもそも全く公正なリーダーなどというものはあり得ないので、なんらかバランスを欠くものになるだろう。強くて優秀なリーダーの終身独裁ということがもしあり得たりしても、それよりは凡庸なリーダーが2~3回の選挙ごとに交代することによって制度も政治家も鍛えられていく、という方がマシな社会制度である、というのが議会性民主制の大前提である。
 ハンドルは細かく左右に回して、行く先を調整したほうがよい。右に回したら崖が見えたら左に切り、左には川が見えたら右に切るべきである。どうも、日本の有権者は右に切ってもうまく行かない時、さらに右に切りたがる傾向がないだろうか?

 なので、政策を精査するが面倒くさい人にとって、投票先を決める最も簡単な方法は「現与党が与党になった時から今まで、自国の社会や経済が全般的に良くなっている」と思う人は与党に票を投じ、「全般的に悪くなっている」と思う人は野党第一党に投じる、ということである。もう少し余力があれば、小規模政党まで各政党のマニフェストを精査し、投票先を決められれば、その方が良いであろう。ただ、どちらの場合にせよ、一回の投票で社会が劇的に良くなると期待しすぎない方がいいであろう。どうも、市民社会にとっての投票の重要性を強調したいばかりに、投票の意義を過大に強調し、「行かない」という選択をする人を非難する傾向がある。しかしながら、投票というのは、そこまで大事なものでもない。ただ、手間を考えてみれば、特に日本の場合は子どもでも通える単位である学校区に一つ以上投票所が設置されることが常識であり、手間も、例えば初詣と同じようなものであろう(そして、お賽銭はいらない)。その程度の手間で、かつ「適当に投票」さえしておけば、ファシズムが到来するようなことにはならない、と思えばそんなに腹も立たないのではないか。社会をすごく良くしたい、という欲求があるのであれば、社会運動などの別の手段を考えることもできるわけで、投票という行動にさほど期待をし過ぎずに、初詣気分で行ってみるといいだろう。
 ただし、これは文化的なものもあって、先にルソーの話をしたが、ルソーは選挙の結果を「一般意志」と呼び、これに絶対的な権威があるのだと考えていた。ただ、そう考えるためには選挙に工夫が必要なことも認識される必要がある。例えば、よく似た政策を掲げるA候補とB候補、それに極端な政策を掲げるC候補がいたとして、A、B候補がそれぞれ30%、C候補が40%の得票でC候補の当選が決まったとする。その場合、有権者の「一般意志」はAとB候補の政策に近いのかもしれないが、そこの票が分かれたためにC候補に決まってしまった、ということになる。そこで、フランスなどでは決選投票が準備されている。一次投票で過半数を取った候補がいない場合、C候補と2位の候補(AかBかで僅かでも票数の多い方。ここではA候補としよう)が決選投票に臨む。有権者の意思が本当に「AとBの中間ぐらい」のものにあるのであればA候補にB候補の票も加味され、一般意志に近い結果として、A候補が選択される。この時「A候補の政策は好ましいが人格が…」とか「B候補を蹴落としたA候補の政策が好ましくても、私は許せない」とか考える人が多数いると、ちょっと困ったことになるわけである。
 もちろんこれらは理念的な話であり、実際はこのように一般意志が綺麗に決まることはまずない。そこで「選挙に賭ける手間はそこそこでいいので、選挙後に有権者が圧力団体を作ってロビイングしていくことによって政策を修正しよう」という考え方もある。フランスに対して、これらは米英で典型的にみられるやり方であり、この場合、決選投票などは行わない。先ほどの例で言えば何はともあれC候補が議会に送られるだが、一方でC候補への委任の正統性は強いと見做されず、市民は組合、業界団体、NPOなどを結成し、さまざまな手段でC候補の政策に影響を及ぼそうとする。これはルソーの理想からみると極めて問題だが、一方で現代社会では社会問題が複雑化しているため、フランスなどでも近年この米英型のやり方が必要だと考える人も珍しく無くなってきている。
 日本はもちろん、決選投票制度を持たないので、有権者が選挙一回で沈黙するべきではないということになるし、また選挙一回にそれほど大きな意味を持たせる必要はない、ということになるであろう。

 ということで、少なくともこの文章を最後まで読み込むぐらい真面目な人は「投票の責任」に過剰な意義づけをして押しつぶされることなく、気軽に選挙に行くのが良い、と思います。

[10/27 17:30 誤字等を微修正しました]

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