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「アラヤ識」と「五蘊」について

 ベルクソンは、脳の中に記憶があるのではないと言っている。脳は物質であり、イマージュである。対して記憶は純粋な即自存在であり、物質ではない。したがって物質である脳の中に物質ではない記憶が保存されているというのはナンセンスである。記憶自体は物質的変化と関係なく、永遠に無傷のまま宇宙の”どこか”に保存されている。脳はただ記憶を現在の知覚へと送り出している仲介機能を果たしているにすぎない。だから脳が破壊されても記憶自体がなくなることはないという。ではいったい記憶はどこに保存されているのか。

 唯識仏教では、生命体が積み重ねてきた業(カルマ)のデータが保存されている心をアラヤ識という。その根本識であるアラヤ識が転開されたのが「私」の身心(五蘊)であり、環境世界である。ということは、「私」を含むこの世界はアラヤ識に記録されたデータが映し出されたホログラムであると言っていい。たとえるなら、アラヤ識とは、映画のフィルムやパソコンのハードディスクのようなものであり、そのデータがスクリーンやブラウザに映し出されたのがこの世界である。
 世界のすべて(あらゆる物質からあらゆる生命体まで)はアラヤ識という心が形として現れたものなのであるから、すべては心(=唯識)である。そしてそれは生命体の数だけ世界があるということを意味する。つまりは、すべての生命体は本来みな「天上天下唯我独尊」である。

 この現象界(生滅の世界)はアラヤ識の内容が具現化されたものだということは、アラヤ識自体は現象以前の世界に属していることになる。現象以前の世界とは「空」の世界である。つまり「空」の世界に記録された業のデータの集合体がアラヤ識であり、それが常に現象界を生み出し続けている。
 ベルクソンの言う「純粋記憶」もアラヤ識と同じようなものと考えるならば、それは現象以前の「空」の世界に保存されていると言っていい。先ほど脳が破壊されても記憶がなくなることはないと言ったけれども、記憶自体は現象以前の「空」の世界に記録されているのだから当然である。
 つまり脳の中に記憶があるのではなく、脳も記憶だということである。なぜならば脳は物質であり、物質とはアラヤ識の内容が現れたものだからである。

 今も刻々と、この「私」の生きている行動データ(=業)はアラヤ識に記録され続けているが、その記録されたデータがまた「私」にフィードバックされることで「私」は行動している(もしくは「させられている」)。「私」は常に自らの行動データ(=業)によって条件付けられて生きているのである(まさに自業自得である)。そして、この「私」が消滅しても、蓄積された無数の「私」たちのデータの組み合わせから、また新たな「私」が五蘊というかたちで生み出される。その繰り返しである。
 
 仏教学者であり仏道実践者でもあった玉城康四郎氏は、業のデータの集合体であるアラヤ識を「業熟体」と呼び、以下のように表現している。

 「限りない過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ、生まれかわり死にかわり、死にかわり生まれかわりしながら輪廻転生し、いま、ここに現われつつある私自身の統括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているが故に、宇宙共同体の結び目である。私性の極みであるとともに公性の極みである。しかもその根底は、底なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒であり、あくたもくた、へどろもどろである」(『悟りと解脱』)

 この「私」すなわち五蘊とは、まさしく業熟体(アラヤ識)の具現されたどうしようもない「へどろもどろ」である。が、同時に「私性の極みであるとともに公性の極みである」という言葉には、なんとも言えない重みを感じる。

 あらためて五蘊とは何か。五蘊とは「色」「受」「想」「行」「識」である。その組み合わせで「私」は形成されている。仏教の本などでは、「色」とは物質的要素すなわち身体であり、「受」「想」「行」「識」は精神構造をあらわすといった説明がよくなされるが、五蘊とは果たしてそのような二元論的な説明で片付けてよいものだろうか。

 「色」とは地水火風という物質的要素であるが、いうなれば大地であり、海や川や雨であり、マグマや太陽熱であり、大気や風である。つまりは地球そのものである。もしくはさらに広げて宇宙の物質運動すべてを表しているとしてもいい。
 「受」とは感受(生体の刺激反応)であるが、アメーバのような単細胞生物や細菌のようなものから高等生物まで、ありとあらゆる生命体はそうした刺激反応を持っているので、「受」とは全生命体のことである。
 「想」とは好き嫌いなどの感情的な識別反応であるが、どんな動物も死を回避して生きようとするので、すべての動物のことである。
 「行」とは意志や衝動のようなものであり、「識」とは意識のことだから全人類のことである。

 つまりは五蘊が「私」であるとは、「私」は地球(もしくは宇宙)であり、「私」はアメーバであり、「私」は動物であり、「私」は全人類であるということである。それらすべてのデータの集まりが「私」であり、その「私」を通して「世界」が現れている。「世界」があり、その中に「私」が存在しているのではなく、現れている「世界」とそれを生きている「私」とは同じ業熟体の二つの面であるので分けることはできない。「私性の極みであるとともに公性の極みである」とはそういう意味である。


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